〇伊藤(ママ)甲子太郎入隊之事
頃日(けいじつ)、横浜奉行堀宮内代官久保田治部右衛門は、浮浪徒が夷人館を襲撃するの風聞あるを以て、之を制するには毒を以て毒を制するにありと、過激人篠原泰之進に夷人館取締役を命ず。久保田は、其頃籏下(きか)の士なれども、旧久留米藩にして、人を過まち害し、肥後に遁れ、又熊本に於ても人を殺害し、江戸に走り、徳川家黒鍬方の株式を購求したるなり。元来柔術に長じたれば立身す。其子仙太郎後任備前守歩兵奉行は、元来篠原と同藩にして、別懇なり。仍て(よって)篠原をして是が長と依頼す。篠原も亦(また)時宜を計り、撰夷の功を立ん事を欲する志あるを以て、其国情を得るに幸いありと思慮して、之を承諾し、予て同盟の士、加納道之助伊豆人後鵬雄二改、服部武雄赤穂藩後改三郎兵衛、佐野七五三之助尾州人、大村安宅相馬藩等を率いて、租税場の関門を守り居たるが、不図(はからず)も筑後の残党鈴木三郎に出会し、時世の談論に及びたる末、鈴木の実兄伊東甲子太郎に面会す。伊東甲子太郎武明初大蔵後摂津は常陸志築の脱藩にして、撃剣に長じ、又和学を嗜み、歌道にも心をよせ、温和にして文武を兼たる壮士なり。江戸深川に撃剣場を設け、中西登、内海次郎と称す股肱の門弟二人あり。藤田小四郎等捜夷の義兵を筑波に挙げたるを慕い居たる際、松平大炊頭頼徳常陸宍戸出張の時、江戸上野山下雁鍋屋に於て、有志の浪徒六十余人応援の為集会す。伊東も同行の念にて列座したるが、久留米脱藩古松簡治変名権藤直郷密かに見る所ありて、別席に伊東を招き、時機逸し今回は必定敗る故に、請う君は当地に居残り、有志を後日に助けられよと懇告して、伊東兄弟、篠原、服部及び津軽藩毛内監物変名有之助等の壮士、爾来(じらい)、懇応事に感覚を発し、今や憂国の士は京師に集り、尊擾の計画に尽力する時至れり、我等も亦上京して応分の力を国家に致さんは如何やと、甲子太郎の発言に何れも之に賛成する際に臨み、近藤勇出府して同志募集の機会に当りたれば、之れ倔竟(くっきょう)の僥倖なりと喜悦して、近藤に面会し、其主儀を聞き、国家の安危に及び、長防の所置如何を議す。勇元来武事一遍の士にして、文事に暗らく、伊藤(ママ)の高義卓論に伏する所ありて、遂に同盟を約し、十一月十五日(*1)、江戸を発して登京す(こちら)。此時、大村安宅は神奈川の関門通行に煩惑し、間道を巡りたるが、尚嫌疑を避けず割腹して果ぬ(こちら)。依て此一列九人、同月三十日、京師に着す。
扨(さて)又新選組更らに規律を設立し、隊伍を編成す。五人に伍長一名、十人に一名の長を置くを定めたり。其役員の席順、総長近藤勇、副長土方歳三、参謀伊藤甲子太郎とす。以下自一番至十番一組十二人長たり。
一番 沖田総司 二番 長倉新八 三番 斎藤一
四番 松原忠治 五番 武田観柳 六番 井上源三郎
七番 谷三十郎 八番 藤堂平助 九番 鈴木三樹三郎
十番 原田左之助
諸士取調訳兼監察 山崎蒸 篠原秦之進 新井忠雄
服部武雄 芦屋昇 吉村貫一郎
緒方俊太郎 勘定掛 川合義三郎
其他小荷駄書記取締役等を設け、撃剣は沖田、池田、長倉、安仲、新井、吉村、斎藤を頭とし、柔術は篠原、梁田、松原を師とし、文学は伊藤、武田、斯波、毛内を長とし、砲術は清原、阿部、馬術は安富、鎗述は谷と、各其師範を定め、厳重に法令を立て其所置の辛酷なる一例を挙るに(後略)。
(*1)10月15日の誤り。
<ヒロ>
後略部分は、新選組の内部粛清が語られています。(伊東らは新選組の暴力的な側面についていけなかったという史料もあります)。
(2007.7.3、2017/12/26修正)
|