「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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御陵衛士の伝記  

西村兼文の新撰組始末記 (明治22年脱稿)より

その2 慶応元年(1865):伊東甲子太郎の志士救解

 〇井上謙三捕縛詰問之事
ここ(玄を2つ並べた字)に又洛東清水寺舞台の麓に閑居したる井上謙三と云へる老士あり。旧と羽州米沢の真宗東派の僧侶なり。壮年より京キに出、詩文書に志深く且つ僧を厭ひ有、婆塞の姿となり、東本願寺坊官下間民部卿法印の食客たりしが、安政の初め本願寺の事に関し江戸に護送せられ、寺社奉行の裁許を受けたり事あり。隨分気節高く、此頃に至り尊攘の説を專はら主張し、博くゥ藩士に交際ある者なるが、巳年(*1)五月、将軍家防長追討の命を拝し進発の際、江州膳所藩士阿閉権之丞、増田仁右衞門、及び河瀬太宰、水戸藩鯉沼伊織今香川敬三等、之を諌止せんと企つ。事途に発覚して各捕縛せられたる中に、独り鯉沼追捕を遁れ、井上謙三方に一泊せしめたる事新撰組探り索め、多人数を以て同家を囲み、家内を突撃したれ共、更に怪しき者も見へざれば、井上を縛して本願寺の陣営に連来り、縛の儘(まま)近藤土方伊東等の面前に引据、鞠(きゅう)問す。井上何の恐る可き躰もなく、従容として高声を発し、抑も(そもそも)老衰の一箇人を捕ふるに多人数を以て洶々(きょうきょう)敷挙動は何事ぞや、仮令(たとえ)何等の罪あるも白状するに道なく、我等不肖なりと難も(いえども)帯刀の者なるを捕ふるに縄附とせらるは、完く士道の心得なき無道人の所為なり、将さに国の起らんとするや、賢君名士あり、仮令重罪人たりともなる可く寛大の所置あるを以て我国の義談とす、国の将さに亡びんとするや威権を弄する暴臣出て残酷の所置をなす、徳川家十三代の盛世も新撰組の如き暴客出て其社稷を倒す、豈(あに)梗概に堪へざらんや、鳴呼老生何の罪ありて斯の如き非分の恥辱を与ふるや、と却て其酷烈を責む。或は元和年間家光将軍上洛の節、石田三成の三男僧某なる者箱根山に於て将軍家の輿に発砲したるも其後捕へられたるが寛大の所置を以て士道の扱ひありし例を引き、兼て近藤土方が文学に嗜みなきを知リ、強弁を尽し、難しければ、両人其先きを挫かれ、鯉沼の詮穿も得遂げず、黙止たり。伊東は是をよき折なりとして、勇に向ひ、此者の言語を以て推察するに、悪意ある者とも思はれず、一介の老生なんぞさしたる事を為すべきや、なまじ放ちやれば如何とあるに、両人もあぐみ居たる際なれば、之を幸ひとして、其意に応じて放ちたり。井上は伊東が介言に辛ふして虎口を遁れ得たり。

 ○赤根武人淵上郁太郎放獄之事
赤根武人は長藩奇兵隊の長として、武道は更なり、文技にも達し、能弁多才の一士なりしが、同僚高杉晋作以下見る所ありて疑惑を被むり、甲子年(元治元年)冬長州を退去し、又久留米藩士淵上郁太郎は其師眞木和泉守保臣の死節に殉せざるを以て是も亦奇兵隊士の憎しみを受け、心鬱々として楽します。仍て(よって)尚一廉の功効を以て回復を計らんと欲し、両人会合して長州を脱し、筑前藩士筑紫衛早川養敬今勇が藩務を帯び上京する際之に属し大坂に至り、難波村に潛伏して両人共米商人に化し、赤根は柴屋和兵衞と稱し、淵上は松屋長兵衛と変名して隠に幕府の動静を窺ひ居たるが、却て幕府の探偵にかぎ(鼻編に臭)附られ、町奉行の手に召捕られ、京師の拘引に就き、六角の獄に絏(つな)がれたれり。伊東甲子太郎之を聞くや一計を旋(めぐ)らし、近藤土方に宥説して曰く、赤根淵上の両人は長藩に於ても有名の壮士なり、彼両人が助命を請ひ、新撰組に連還(つれかえ)れば、後図の為、大に計る処ありと、其機密を語りければ、近藤土方、其奇策を賞し、赤根淵上両人の助命を請ひ、遂に其免を得て両人を山城国葛野郡梅津村の莊官中路角右衞門方へ預け、種々説得に及び、遂ひに両人に幕府の内命を奉せしめ、長州に放し激論徒を降伏せしめん事を謀り、帰送せしめたり。
     赤根武人、淵上郁太郎の両士、幕府の機密を含意して既に京師を放逐せられ長国に帰順せんとするに、其策略ある事高杉晋作に看破せられ、赤根は奇兵隊中に斬殺せられ詰腹切らせたると云ふ、淵上は長州を放逐せられ、辛ふして遁がれ、再度京師に来りたるが、伊東甲子太郎、新井忠雄と共に九州遊説に巡回したる時、筑後国高良山の麓にて伊東に別れ、新井と二人にて太宰府に出んとする夕刻、如何なる事にや、淵上落命せりと聞けり。或人曰く、赤根は反覆の嫌疑を蒙むり、長州に帰り、同藩槙村半九郎後正直の為めに発覚して人をして刺殺されたりと。云又淵上は篠原泰之進と同藩の因みあるを以て中路に預けたり。其間は篠原一人のみ常に往来して密事を語らひたりと云。

 ○長藩石津茂一郎就縛附隊士田中寅蔵屠腹之事
石津茂一郎変名峯郡之助は長藩遊撃軍総督来島又兵衛の家来なり。其主来島又兵衞正久去る甲子年(元治元年)七月十九日公家門前に於て討死したるを無念に思ひ、且つ其以来長州人京師に入るを厳禁せられたれば、上方の動静、国許に聞へざるを遺憾し、(慶応元年)閏五月予兼文が馬関より同行したる村井逸馬と変名したる池田健次郎江州大津人の蹟を追ひ、密かに京師に入、幕府の動静を窺ひ、同六月下旬本国に還れり。同年七月石津再微行して上京し、醒井魯棚の旅舎藤屋伊兵衞方に泊す。如何してか所司代桑名藩公用方筑摩市左ヱ門之を知りたるや、新撰組本陣へ出張して其捕亡を近藤勇に命ず。仍て(よって)隊士中西登、小路平三郎等五人の壯士を遣はし逮捕せしめ、陣営に率て糾問す。此時、伊東甲子太郎、彼が身上を引受け其忠誠を愛し、能く労はり、幕府に助命を乞ひ、後日用ひ方もあらんと死を宥め置たる際、赤根武人・淵上郁太郎等も助命の上長防激徒の説諭に用ゆべしとの幕議により、故なく救助せられたり。石津は是偏へに伊東が尽力によると聞き、厚謝したり。其後新撰組の客員同樣の取扱ひを受て居たりしが、同二年寅(慶応2年)五月比大目附永井主水正芸州下向の節、長州へ引渡されたり。
     兼文、維新後明治五年東京に詣リ、鈴木三樹三郎を訪ふ時、彼石津に出会たりしが、其後如何なりたるや知らず。
同元乙丑年(慶応元年)三月十五日(*2)、隊士田中寅蔵信行は旧加州藩に於て隊中屈指の撃剣者なり。品行も亦方正なるか過激の攘夷説を主張したるが、夫が為めに嫌疑を被むり、屠腹せしめられたり。時に歳二十七辞世の和歌を遺す。
 何つかたも吹ば吹せよしこの風高天が原はまさに吹まじ
 四方山の花咲みたる時なれは萩もさくさくむさし野まても


*1 膳所事件は慶応元年閏5月。丑年なので巳年は誤り。
*2 光縁寺の墓碑によれば慶応3年4月。(墓碑には4月16日とある)

関連:「渕上郁太郎暗殺始末」(by市居浩一氏)

(2018/1/2)

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出所:「新撰組始末記」(『野史台維新史料叢書』30)より作成
(原文のカタカナは平仮名とし、旧字は適宜当用漢字に直し、句読点は任意にうっています。割注は茶色で示しています。()内は管理人です)

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