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『共同研究新選組』(昭和48年)初出の「渕上郁太郎暗殺始末」を、著作者の許可を得て掲載しています。転載・複製・配布は固くお断りします。

渕上郁太郎暗殺始末
by 市居浩一氏

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プロローグ

 久留米藩有数の志士として、一頃諸藩有志の間に頗る声望のあった渕上郁太郎が、変節して幕吏に通じたという理由で、筑後柳河領山中村で暗殺されたのは、慶応三年二月十八日の暮六ツ頃であったという。
 刺客については、これまで私もできる限りの調査はしてみたが、結局「誰々である」と絶対の確信を以て断言できるだけの史料は発見できなかった。
 史家の間にも定説はないようであるが、一説によると、当時九州遊説中であった新選組の参謀伊東甲子太郎と、彼の腹心で浪士調役だった新井忠雄が、誘い出して斬殺したのであるという。しかしこの説とて、十分な立証史料の裏付けがあるわけではない。
 そこで、ここにいささか彼の暗殺前後の顛末を述べて、識者の御批判を仰ぎたいと思う。

郁太郎の履歴

 郁太郎実名は祐広、久留米藩領下妻郡水田村の獣医兼雑貨商渕上祐吉の次男として、天保八年十月二十日に生まれた。少壮医を学び天草で開業していたが、安政三年業を友に譲り、江戸に出て大橋訥庵に学んだ。居ること四年、学業大に進んで万延元年五月郷里に帰った。文久元年、士分に登用され、藩校明善堂の教授に挙げられた。
 文久元年の秋頃から、久留米勤王党の総帥真木和泉守を援けて尊攘活動に没入、翌二年二月、真木、平野次郎、田中河内介、有馬新七、清河八郎らを中心とする倒幕挙兵計画に参加すべく脱藩したが、長州で追捕の藩吏に捕えられ藩牢に収監された。
 文久三年春、朝旨によって特赦され、上京して三条実美、姉小路公知、中山忠光らに時事について献策するところがあった。八月、公武合体派の巻返しによる政変が起り、三条実美らが長州に落ちたときには、兵庫まで同行、そこから井村簡次と変名し引返して、京摂の形勢探索に当った。
 元治元年六月五日、池田屋事件の当日は、池田屋にいたのか、他の場所にいたのかよくわからないが、危く捕手の襲撃を逃れて身を全うすることができた。長州藩京留守居役乃美織江の手記がある。

 浪士渕上郁太郎、裸体川を渉て津和野藩邸に遁れ、三日を経て屋敷に帰る。

  文中「邸」とあるはもちろん長州藩邸を指す。「帰る」とある以上、事件前からずっとここに潜伏していたのであろう。池田屋で死んだ長州の志士はもとよりのこと、肥後の宮部などもこの藩邸を根城にしていたようであるから、当然郁太郎も宮部らの評議に参画していたものと考えるのが自然であろう。
 翌七月の禁門の役には、山崎嵯峨方面の軍に属していたが、戦利あらず長州に逃れた。この年の晩秋から冬にかけて、長州藩境に迫った征討軍を解兵せしむべく、解兵条件の一つである三条実美ら五卿の長州から筑前への移転実現を促進するため、筑前勤王派の有志と共に長筑間を往来周旋に努め、五卿の移転、征討軍の解兵に預って力があった。
 慶応元年、筑前藩士月形洗蔵、早川勇、筑紫衛、ならびに元長州奇兵隊総督赤根武人、薩藩士西郷吉之助らと謀り、進んで五卿の復職帰洛を計るために、上洛することになった。なお、赤根は、藩論統一の方法論について、高杉晋作と意見の対立を来し、この年正月脱藩して筑前に亡命していたものである。
 三月、早川、筑紫の上京するに当り、郁太郎は松屋長兵衛(後高瀬屋と改む)、赤根は柴屋和平と変名、筑前商人と称して行を共にし、別船を以て東航、同月十七日着坂、運動未だ緒につかぬ十日後の三月二十七日に、大坂町奉行所の捕吏によって両人共逮捕され、入牢を命じられた。
 以上が慶応元年三月に至る郁太郎の経歴の大要である。これ以後は、新選組との関連がやや深くなるから、章を追ってその都度述べて行くことにする。

(2004.7.29)


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