「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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御陵衛士の伝記  

西村兼文の新撰組始末記 (明治22年脱稿)より

その3 慶応元年:河瀬太宰妻;富山弥兵衛と伊東甲子太郎

 ○河瀬太宰妻節死附隊士暴行之事
頃日(けいじつ)、江州大津尾花川に兼て正義の聞へある河瀬太宰定三井寺円満院宮臣先きに膳所藩の事件に仍て(よって)捕縛したるに際し、其宅は隊士四、五名出張して家内取調に着手したるが、太宰の妻幸と云もの年齢四十余才にして沈静なる性質なり。隊土曰く、嫌疑の筋あるを以て京キへ同伴せんとあるに、幸、自若として我等女の事なれば、さのみ厳重の御手当にも及び申間敷、更衣の間少しく猶予せられよと請ふにより、其請に委だねたれば、奧の間に入る。裏は数里の湖上際にて何方へも遁るゝに道なく、頃しも夏の事なれば、障子を開らきたる儘(まま)にて見渡されてあるに、箪笥を開らき衣服を取出すと見へたるに、予て用意やしたりけん懐剣を抜き持、忽ち己が咽喉深く刺通す。隊士此躰を見るや驚ろき、奧に入り、取支へ介抱したりしが、最早剣先項に貫き、療用達せず死したり。実に慶応元年五月*1廿五日(ひぐれ*2)時なり。夫太宰、虜に就くや関係の書類は悉く火したるや辺りに一書もなかりしと此時出張したる隊士佐野七五三之助賞誉して語れり。同七月廿五日、隊士佐野牧太郎、市中富商に強談以テ金調したる事露顕して斬罪に所す。
同八月八日、洛東蹴上村奴茶屋へ薩藩橋口四郎・隈本壮介助押入て金調を計るに強談す。亭主困却の余り壬生の陣営に訴へ出る。仍之武田観柳(=観柳斎)を長として六七名奴茶屋へ出張す。元来気速の薩藩、新撰組と見るや一言の応接にも及ばず、忽ちチ両人共抜刀して切て掛る。六名の隊士心得たりと渡り合ひ、切結びたるが寡は衆に敵しがたく、橋口は戦に討れ、即死す。隈本は深手を負て生捕られ、観柳は此時刀を打折たり。頓て本陣へ連帰り、一応尋問の上二本松薩邸に送る。又是より先き、八月五日夜島原廓内住吉社前に於て、隊士の者女と同道したる士に行違ひ、之に過言す。彼士憤り双方口論に及びたるが、忽ち抜刀して其士を討果したり。連れ女は此体を見て驚ろき、何くともなく迯失たり。翌朝の咄に聞けは、彼士は一橋家の臣なりとす。其頃、隊士某同廓角屋へ登楼したるが、折節の多客にして断りたるを不快して、同家台所に平常に居置たる大釜は由緒ある古器にして世々秘蔵したるを、六五名の壮士乱入して其鐫を引揚げ、石を投して微塵に打砕だきたり。尤も酔中とは云ながら暴行無頼の挙動なり。
又薩藩此隊の挙動を深く憎くみ、之を探らん為、藩士内田仲之助(=政風)家来富山弥兵衞初名四郎太と云へる者、壮士、先きに洛東大仏に於て人を殺害し、放逐せられたるが、此隊に入る。近藤等、方今の薩藩なれば計策の為入隊したるならんと疑惑し、之を拒みたるが、伊東は、是薩藩と因むの端なりと、種々近藤を説き、遂に同志とせり。富山は其景況を察し、伊東は一列の佐幕徒にあらざるを知り、交際殊に篤く結び、大久保一蔵(=利通)に引合せ、其主義を聞くに、大久保にも甚た感歎せられたり。是が補助となり、後日天下の為なす期あらんと、此輩の為めに後々迄も力を致せり。富山は是より伊東を師範と仰ぎ、文武の道を能く勉励せり。

*1閏5月の誤りと思われる。
*2日へんに甫

関連:
志士詩歌:「膳所事件」@幕末館(新しいウィンドウが開きます)
*詩歌と小伝は、城兼文(西村兼文)の「近世殉難一人一首伝」より
御陵衛士列伝:富山弥兵衞

<ヒロ>
川瀬太宰の妻の覚悟が悲しいです・・・。西村兼文の情報源が佐野七五三之助であること、佐野が河瀬の関係書類始末に感じ入っていたという記述は興味深いです。

(2018/1/5)

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出所:「新撰組始末記」(『野史台維新史料叢書』30 より作成
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