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【水戸脱走兵に殺害された「後世諸士ノ亀鑑大丈夫の士」】富山は薩摩出身。一説に間者として入隊しようとしたのを近藤勇が疑ったが、伊東甲子太郎が「薩摩藩とのつなぎになる」と口ききをしたという。伊東に傾倒して学問をするようになり、伊東を大久保利通に紹介したという。油小路事件では新選組の包囲を破り、薩摩藩邸に保護された。同志の復仇のため、阿部十郎らと近藤要撃に参加。鳥羽伏見の戦では薩摩軍に属し、負傷した。赤報隊結成には加わらず、新政府軍の指示で越後方面の探索に向ったが、出雲崎で水戸諸生党脱走兵に捕らえられた。脱出したが追手数十名に囲まれ、田に足をとられたところを殺害された。その首は鳩首されたが、捨札には「後世諸士ノ亀鑑大丈夫ノ士(=後世の武士諸君の手本となる大丈夫の士)」と勇戦をうたわれた。26歳。 |
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名前 | 富山弥兵衛/富山四郎豊国 |
出身 | 薩摩 |
生年 | 天保14(1843) |
没年 | 慶応4(1868)年閏4月、水戸藩諸生党と闘死。享年26歳。墓所:京都戒光寺、ほか柏崎招魂場、霊山神社、新潟護国神社、靖国神社に合祀。 |
評判 | 「剣術を能く致し、柔術も何とも免許位なれども、何分力あり、足の早き事馬と共に走る位のものにて、実地となると芸術よりも非常の働きをしたるものなり」。 |
詩歌 |
辞世 「から人は死してぞ止まめ我はまたなな世をかけて国につくさん」 |
年表 | 生い立ち 新選組 御陵衛士 戊辰戦争(準備中) |
小説 | 司馬遼太郎 「弥兵衛奮迅」(『新選組血風録』収録)→【レビュー】(準備中) |
新選組加盟まで■薩摩出身富山は薩摩に生まれ、文久元年(1861)に国を出て江戸に上り、元治元年(1864)に上京したという。同年11-12月頃までに新選組に入隊(「行軍録」)した。薩摩藩の間者として探索のために新選組に入隊したともいうし(『一人一首伝』)、薩摩藩士内田仲之助(政風)の家臣だったが、洛東大仏で人を殺害して放逐されて入隊した(「壬」)ともいう。内田は江戸藩留守居添役を経て、文久3年以降、京都留守居役を務めた人物である。近藤勇は薩摩出身の富山を怪しんだが、同年10月末に上京していた伊東甲子太郎が、薩摩藩とのつながりの端緒になるからと、近藤を説得して入隊させたという(「壬」)。
新選組時代■伍長元治元年末に作成された「行軍録」においては、富山は松原忠司の指揮する七番大砲隊一員に挙げられている。また、永倉新八の「同志連名記」によれば、伍長だとされている。慶応元年7月、富山は伊東・篠原秦之進・茨木司・久米部正親と、大和に浪士捕縛に出張している【伊東の事件簿】。また、除隊隊士川島勝次が隊名をかたって金策していたため斬首されたが、このときの斬首役が富山だったといわれている(「壬」)。 また、富山は伊東を尊敬し、文武に励み、後には薩摩藩大久保一蔵(利通)に引き合わせたという(「壬」)。 御陵衛士時代■衛士?随従同志?雇人?伊東らは、戒光寺長老湛念の尽力によって慶応3年3月に御陵衛士を拝命し、3月20日、新選組から分離した。当時の風説では、富山は伊東らと同時には脱局せず、後から合流したとされている(「編年雑録」・「鳥取藩記録」)。同年5月10・11日に新井忠雄が大宰府の真木外記を訪問したが、そのときに新井が伝えた御陵衛士名を真木が書き留めた「日知録」には、富山の名はみられない。また、衛士の賄係・岡本武兵衛の聞書では富山は「雇人」だとされている。さらに、篠原秦之進は明治になって史談会で二度証言しているが、そのうちの一回で、富山を「随従同志」に入れている。もしかすると富山は衛士を拝命していなかったのかもしれない。 ところで、富山が新選組への間者だったとすれば、新選組から分離してしまうのは役目放棄であり、変である。伊東らの分離時、同志の中には残った者もおり、残ろうと思えば残れたと思うのだが・・・。衛士を拝命していなかったとすればなおのことである。新選組が富山をうさんくさいと感じており、よい機会だからと分離させてしまったのかもしれないが・・・・・・。どうも、間者説は腑に落ちない。 ■曲直瀬道策を殺害?5月25日、大坂で曲直瀬動策という志士が殺害された。宮内庁の『殉難録稿』こは暗殺犯として富山の名が挙げられている。私怨によるものらしい。市居浩一氏の調査によれば、この件について傍証はまったくなく、間違いとは言い切れないものの、殺害が事実とも断定できないようだ。油小路事件■血路を開いて薩摩藩邸に慶応3年11月18日、伊東が近藤妾宅に呼び出された。その帰途、新選組に暗殺された。翌19日未明、囮として晒された遺体を引取りに出かけた富山ら衛士は待ち伏せの新選組数十名に襲撃され激闘となり、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が戦死した。富山は血路を開き、抜き身をさげたまま醒ヶ井通りの東側を北へ走った。今出川の薩摩藩邸に保護を求めるつもりであった。途中、やはり重囲を突破した加納、三樹が合流し、午前3〜4時頃に薩摩藩邸にたどりついた(加納談『史』)。中村半次郎が大久保一蔵と相談して邸内に匿ってくれ、その日のうちに伏見藩邸に送られたようである。護衛には中村のほか、山内半左衛門、永山某、山田某がついた(「京在日記」)。 同志のうち、清原清・江田小太郎・佐原太郎は、油小路事件当時、伊勢方面に遊説に出掛けていたが、富山が急を知らせに向かったという。 ■同志の復仇−近藤勇要撃慶応3年12月18日(伊東らの祥月命日)、阿部・内海・佐原・篠原・加納・富山の6名は伏見街道で、二条城からの帰路にある近藤を要撃。狙撃して重傷を負わせるが騎馬のため逃げられてしまった。戊辰戦争■鳥羽伏見の戦いで重傷富山は、慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いでは、同志とともに薩摩藩一番隊として戦ったが、同月4日、鳥羽方面の戦闘で、三樹とともに重傷を負ったという(「同志富山侵撃せしに賊砲にて背中を横に一尺ばかり穿たれたり。故に駆付て帯を解き、背中を裏み、後陣に護送す」「秦」)。翌5日、三樹らは赤報隊挙兵のために京都を出立したが、この傷のためなのか、富山は参加しなかった。傷が癒えた2月、富山は東征軍に加わって江戸まで行くが、まもなく京都に戻った。■水戸諸生党脱走兵により捕縛慶応4年4月下旬、新政府軍参謀黒田了介(清隆)の命により、富山は越後方面の探索に出発した。このとき、美濃の侠客水野弥太郎の子分だと称していたようである(「秦」)。水野は、永倉新八の記録では新選組出入りだとされているが、西村兼文の「壬生浪士始末記」では、衛士時代の藤堂平助と農兵を集める約束を交わしたとされている。閏4月1日、富山は騎馬で出雲崎に入り、大崎屋という宿屋で馬を下りたが、下り方が見事だったために怪しまれ、土地の目明しに訊問された(『小木』)。折り悪しく、当時、出雲崎には、水戸諸生党の脱走兵が進入しており、その幹部の一人伊東辰之助が大崎屋を宿舎としていた。富山は水戸脱走兵に囲まれて訊問され、摂津屋に連行されて二階の柱に縛りつけられた。翌朝、富山はすきをみて縄を切り、短刀を取り戻して逃げ出した(「秦」、『小木』)。 ■槍で殺され、鳩首:後世諸士ノ亀鑑大丈夫の士富山は東へ二里走り、吉水村(くそうず・むら)まで逃げた。しかし、草生水(くそうず)坂で、槍を手にした水戸の脱走兵数十名に追いつかれた。数人は斬ったが、田に足をとられて深みにはまり、動けなくなったところを四方から槍で突かれた。短刀で応戦したが、敵わず、闘死した(「秦」、『小木』)。その首は斬られ、さらに、肝も切り出された。脱走兵は「なかなか太い奴だと思ったが、なるほど太い肝をもっている」と笑ったという(吉永村庄屋・山田才一の遺談『小木』)。>>【逸話:富山、最後の闘い】(準備中)。享年26歳。富山の首は槍に突き刺されて出雲崎に戻り、そこで3日間鳩首された。捨札には「薩州藩賊後世諸士ノ亀鑑大丈夫の士也」とあった(「秦」)。水戸脱走兵も富山の勇敢さに敬意を表したようだ。遺体の始末を命じられた吉水の庄屋・山田方一は、「何でも相当由ある人であろう」と考え、かねてから脱走兵の横暴を憎んでもいたので同情の涙を禁じえず、遺体を教念寺境内の鐘楼の傍らに埋葬した。(『小木』) ■神社に10月、戊辰戦争の凱旋で帰京の途にあった篠原が出雲崎に宿陣した。篠原は、薩摩藩士後藤栄之丞とともに教念寺の住職と庄屋山田を呼び出して、遺体埋葬を謝すとともに、富山の戦死の状況を聞き取った。その後、富山を神霊に擬して玉垣をつくって安置した。村人は銘々旗を立てて祝ったという。(以上、「秦」)また、越後口総督仁和寺宮が凱旋途中に柏崎に宿陣したとき、庄屋山田を召しだして富山戦死の状況を下問したという。そのとき、仁和寺宮から「王事に死んだ者なので神として祭れ」との言葉があり、山田は私財を投じて小さな神社(富山神社)を建立した。山田が存命中は祭礼を欠かさなかったという。社殿は昭和36年9月に台風で倒壊したが、それまで「豊国さん」と親しまれていたという。特に、この神社に参ると兵役にいかずにすむという俗信があったらしい。社殿崩壊後、史跡がなくなるのを惜しんだ教念寺の住職がその跡に碑を建立して、今でもその地に立っているそうだ。(『高』) ■戒光寺で同志とともに明治2年11月、衛士の生き残り(三樹、篠原、新井、阿部、加納、内海)が京都戒光墓地に伊東ら同志の墓碑を建立した。このとき、油小路で闘死した伊東、藤堂、毛内の4名のほか、慶応3年6月に会津藩邸で横死した茨木、佐野、中村、富川の4名、そして戊辰戦争で戦死した富山(富山四郎名)、清原(武川直枝名)及び高村久蔵(新井の従者)の墓碑も建立された。戒光寺境外墓地は孝明天皇の御陵のある泉涌寺の門前に在る。管理人が戒光寺渡邊住職にお聞きしたところによれば、戦死した衛士たちのために山を切り開いてつくられた墓地なのだそうだ。彼らは死しても共に御陵を衛っているのである。 |
参考:「秦林親日記」・「京在日記」・「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」・『小木の城山』
『大日本維新史料』・『史談会速記録』・『修補殉難録稿』・『新選組遺聞』
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衛士関連での前例が何件かあり、まいっていますのでヨロシクお願いします。