九州道中記トップ 手記・建白 HPトップ


九州行道中記(3)九州到着・肥後へ:
慶応3年1月22〜26日(1867年3月6〜10日)

(2) ← → (4)

廿二日 晩又々出で、九ツ時豊後国佐賀関港に着、夫れより小船四艘にて鶴崎に向かって行く、港口引潮にて船入ること叶わず、三人は途中より上陸鶴崎に着、永井ぬしは夜五更頃に同所に着。

二十三日 鶴崎より三人肥後路に向ひ、永井ぬしは府内より日田の方へ行く。宇津原にて昼飯、竹田領今市に泊、黒峠とて箱根にまさる険山を打越ゆ。

二十四日 堤村にて昼、入住泊、前日の通り総て高山なり。


二十五日 大津宿、昼内野牧泊。

二十六日 坂梨昼、此所は肥後の関門厳重、山鹿野泊


<ヒロ>
22日正午ごろ(昼九ツと解釈)には佐賀関港(大分県佐賀関町hp)に到着し、小船に乗り換えて鶴崎(大分県大分市鶴崎地区)に向ったものの引き潮で船で入ることはできず、途中下船して歩いて上陸しました。永井尚志は20時ごろ鶴崎に到着しました。

23日、三人は鶴崎を出発し、肥後(熊本)路(=豊後街道)へと向かい、府内(府中の誤植?)で日田(幕府領:現在大分県日田市)方面に向かう永井と別れました。宇津原(野津原の誤植?)で昼食をとり、竹田藩(豊後岡藩)領の宿場今市(hp)に宿泊しました。その後、黒峠(大分県九重連山黒岳?)という箱根よりも急峻な山を越えました。

24日、豊後街道堤村(大分県直入郡直入町hp)で昼食をとり、入住(久住の誤植だと思われます。大分県直入郡久住町hp)で宿泊。この日も前日同様、高山の山越えでした。

25日、豊後街道の大津宿(肥後/熊本県菊池郡大津町)で昼食をとり、内野牧宿(肥後/阿蘇郡阿蘇町内牧)泊。

26日、豊後街道坂梨宿(hp)で昼食。ここは肥後藩の関所で厳重でした。山鹿野泊。薩摩街道(豊前街道)の山鹿=熊本県山鹿市?(hp)。

27日、薩摩街道を北上。肥後の南関(熊本県玉名郡南関町)で昼食。その後、間道をとおって筑後の三池(福岡県三池郡)へ。

<ヒロのぼやき>
せっかく肥後に入ったのに素通りなんですね・・・^^;。沼山津の横井小楠と会ってみようと思わなかったんでしょうか。この年の10月頃に出したと思われる伊東の建白からみれば、小楠の国是三論とか公議公論とか興味をひかれ、直接会って学びたいと思ってもおかしくないと思うのですが、まず大宰府なんですね(笑)。

といっても、伊東は大宰府の後、しきりに肥後遊説の周旋を行うんですが。うまくいかずに肥後には行けずじまい。この周旋は小楠に会うためだったのか、肥後勤王党に会うためだったのか・・・。う〜ん。もしかすると小楠との出会いがありえたかもしれないと思うと、残念無念。

結局、肥後での周旋がうまくいかなかった伊東らは長崎へ行き、なんと長崎で9泊もするのですが(長崎奉行を訪ねているので、そのときに洋学所のフルベッキの講義も聞いたと想像しています)、あるいは、そのときの経験が伊東を大開国論へと導いたのでしょうか・・・・・・。
2001.2.28、2004.2.26更新

(2) ← → (4)

参考hp:パノラマで見る大分県

九州道中記トップ 手記・建白 HPトップ