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九州行道中記(4)小倉の難民の惨状に落涙
慶応3年1月27日(1867年3月11日)

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二十七日 南關晝、此處に肥後の關門之れあり、小倉の人老少婦人残らず肥後領に移り来る事とて、実に哀れの有様、思はず落涙致し候。夫れより三池への間道を経て清水氏に泊

↓原文写真より判読by管理人
廿七日南関昼此處肥後関門
有之小倉人老少婦人不残肥後
領に移り来ることとて実にあはれ
の様不思落涙いたし候夫から
三池へ間道を経て清水氏に泊

<ヒロ>
27日、薩摩街道を北上。肥後の南関(熊本県玉名郡南関町)で昼食。その後、間道をとおって筑後の三池(福岡県三池郡)への間道を通って塚本源吾宅に宿泊。途中、第2次幕長戦争(征長戦)小倉口の戦いによる難民の惨状に涙しています。

(私家版「伯父伊東甲子太郎武明」には(註)として「慶應二年小倉と長州と戦ひ長州人、豊前に侵入、八月一日小倉藩は自ら城を焼き拂ひて、田川郡香春に退き、老少婦人は肥後に遁走す。戦争は翌三年に及ぶ」とあります)。

●背景:小倉口の戦い
慶応2年6月、長州再征のため、幕軍と諸藩軍が四方(四国方面の上関口・山陽道の芸州口・山陰道の石州口・九州方面の小倉口)に展開して長州を包囲しました。小倉口の幕軍総督は老中小笠原長行で、幕府からは軍艦三隻及び幕兵(八王子)、諸藩からは小倉藩・肥後藩・久留米藩・柳田藩などが参加していました。薩摩藩・佐賀藩などは出兵を拒否しましたが、それでも2万近い軍勢でした。

6月17日、奇兵隊を中心とする長州軍約千名(装備が近代化)が小倉領の田野浦・門司に上陸し、小倉口の戦いが始まりました。自領に侵攻された小倉藩兵は激しく抵抗し、近代化された装備をもつ長州軍は優勢にたったものの、いったん兵を引きました。この間、幕軍や他藩の軍は傍観するだけで援軍を送りませんでした。7月3日、長州軍は門司に上陸し、大里を攻めました。小倉藩兵が迎え撃ちましたが、やはり幕軍・諸藩軍の支援は受けられず、後退を余儀なくされました。このときも、長州軍はひきあげました。

7月27日、長州軍が小倉城を目指して総攻撃をしかけてきました。長州軍と正面衝突したのは赤坂に布陣していた肥後軍でした。幕軍へ応援を要請しても援軍は送られず、海上でも幕府の軍艦は殆ど打ち合うことがなかったそうで、まるで「肥長の戦争」状態でした。もともと、肥後藩は再征に反対で、藩主名代として出陣した家老長岡監物は、主戦派の小笠原老中に対し、諸大名召集の上で公議によって再征の可否を決定すべきだと、進撃不可を度々説き、激論になっていました。もともと再征に反対だった上、幕軍の無責任とも思える様子に憤った長岡は、同月30日、兵を率いて肥後へ戻りました。これをみた柳川藩も自領に引き上げました。

同じ頃、小笠原には在坂の将軍徳川家茂が死去したと言う密報が届いていました。30日、小笠原は軍艦富士に乗り込み、小倉口から長崎経由で帰坂しました。幕兵も続いて出立。久留米藩兵も帰国しました。

結果、小倉に残ったのは自領を戦場とし、再三の戦闘で疲弊した小倉藩兵のみ。幕軍にも諸藩の兵にも見捨てられ、正真正銘、孤立無援で長州軍と戦わねばならなくなりました。進退窮まった小倉藩は、長州軍に城を攻め落とされることより、自ら居城を焼き払い、領内の要害に移って戦い続けることを選びます。そして、8月1日、城を焼き払い、山岳地帯である香春(かわら)に撤退しました。その後は、小倉城下を占領した長州軍に対し、ゲリラ戦をしかけて、さんざん苦しめます。

佐賀藩と薩摩藩を仲介として両軍が講和条約を結んだのは翌慶応3年1月20日のことでした。

●伊東甲子太郎の落涙
故郷が戦場となり、肥後に逃げてきた人びとは5ヶ月近くも難民生活を送っていることになります。その間に季節は夏から冬に移っています。いったいどのような暮らしを送っていたのでしょうか。小倉藩と長州藩が終に講和したのはわずか1週間前のことです。

比較的淡々と日記を記している伊東だけに「小倉人老少婦人不残肥後領に移り来ることとて実にあはれの様不思落涙いたし候」の一文は際立っていて、彼が強く感情を揺さぶられた様子がうかがえます。

伊東は長州再征には反対でした。幕府の無責任さ、難民の窮状を目の当たりにして、ますますその思いを強くしたのではないでしょうか。

なお、伊東は、慶応3年8月の九州出張時には小倉に立ち寄り、次のような歌を詠んでいます。

  大宰府を立いて小倉に入りたたかひのあとあはれさひしきさまを 見て
此頃は筒石弓の音たへて影もさひしき秋の夜の月

(「残しおく言の葉草」より)

小倉では、春に見聞きした避難民の惨状を思い出していたのではないでしょうか・・・。
2001.2.28 (2004.2.26最終更新)

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