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元治年12月9日(1865.1.6)
【京】老中1-2名の召命の勅諚。

☆京都のお天気:晴時々陰 (嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
■将軍進発問題
〇老中召命

【京】元治元年12月9日(1.6)、朝廷は、幕府に対し、老中1,2名を上京させるよう勅諚を下しました

(てきとう訳)
常野脱走の浮浪が、頃日中山道を罷登り、追々帝都へ迫近づくとの注進があったため、早速一橋に処置させ、江州路まで遣わし、なお又、京師の御固めも手抜かりなく備えるよう、守護職・所司代へ厳重に申し達された。しかしながら、長防の追討については彼是叡慮を悩まされている。閣老滞京の件は、兼て御沙汰のあったことであり、当今国家多端の折柄、閣老一、二人を上京させるようにとの御沙汰である事。

<うらばなし>
将軍進発を促すための老中召命の朝議は、11月に一度起りましたが、そのときは一橋慶喜が諫止ました(こちら)

今回の勅諚は、その慶喜の留守中に出たもので、12月1日に、二条関白から相談を受けた肥後藩留守居役上田久兵衛の提言がきっかけのようです。その日、二条関白は、慶喜の出陣をやむえなく許可した事情を説明した後、久兵衛に対して<最早大樹の進発もなく、いかにも困り入っている。どうか良之助(藩主弟長岡良之助)を上京させてくれぬか>と頼んだそうです。これに対し、久兵衛は<「箇様に関東より疑惑の時節」に列藩を召して御相談などがあれば「弥以(いよいよもって)公武隔絶」仕るでしょう>と反対し、朝廷は何事も「順に和らかに」運ぶようにと述べました。関白が同意して、<ではどうすべきか>と聞いてきたので、久兵衛は、<もはや閣老を召す以外ないでしょう。色々考えますに、このような内容の辞令であれば至極もっともに聞こえることでしょう>と提案したそうです。関白は、「誠に正論」だと喜び、数日のうちに参内して朝議にはかるので、尹宮(中川宮)にもこの提案を言上して置くよう命じたたそうです。

さらに、12月5日、関白邸に参殿した久兵衛は、老中召命の勅諚案に加筆を命じられ、幕府による一会桑の江戸呼び戻しをけん制する文言(「・・・東西紛擾(=天狗西上と長州追討)に付、京地の人心が折合兼ねぬところよりか、一橋初め守護職、所司代等を近々関東へ呼び下すなど、種々の流言が唱えられているとのこと。もとより、そのようなことは決して無い筋だとは思召されるが、偏に御子心細くあらせられる・・・」)等を追加しました。

ところが、この日、実際に出された勅諚にはこれらの加筆が反映されておらず、関白から勅諚の写しを内密に示された久兵衛は、「如何にも堂上方優柔不断」であると歎息しました。

<ヒロ>
幕府が、一会桑を江戸に呼び戻そうとしているという噂は、このころまでには広く広まっていたんですね。久兵衛はがっかりしてますが、勅諚に呼び戻しをけん制する文言など入っていれば、幕府の疑惑を深めるだけで、逆効果だった気はします。

それにしても、二条関白も本当にふらふらしています。先に慶喜が止めた老中召命を、慶喜がいない間に、(朝幕協調派とはいえ)外様藩留守居の言をいれて出しちゃうのですから。

(そして、この老中召命が結果的に幕府の慶喜呼び戻し計画に利用されてしまうという・・・)

参考:12月10日付上田久兵衛書簡『幕末京都の政局と朝廷』p86,93−95(2018/9/11)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

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