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元治年12月12日(1865.1.9)
【大津】一橋慶喜、二条関白に書を送り、水戸藩主譴責猶予・天狗党救解の不可を論じ
留守中は、すべて会津・桑名へ相談するよう改めて要請
【大津】一橋慶喜、肥後藩主弟長岡良之助に書を送り、
征長総督徳川慶勝が大島という「芋」に酔うとの説の真偽を問う
【敦賀】武田耕雲斎ら、慶喜の先鋒・加賀藩への抗戦を回避し、慶喜宛の嘆願書・始末書を提出

◆12/10【京】朝廷で西郷隆盛の「裏表」があるとの噂が流れる(嵯峨実愛、日記に「大島裏表」と記す)/【坂】12月上旬頃、新撰組近藤勇、大坂豪商から6600貫を会津藩の名で借用
◆12/11【天狗西上】天狗党、越前新保に到着して加賀藩と談判。慶喜が追討軍主将と知る。/【芸州】征長総督徳川慶勝、家老石河光晃を名代とし、参政千賀与八郎及幕府目付戸川鉾三等を付して、長州藩恭順鎮の状況を巡検させることを決定。


☆京都のお天気:晴陰不定(嵯峨実愛日記)

>一橋慶喜@大津滞陣中
【大津】元治元年12月12日(1.9)、大津に滞陣中の一橋慶喜は、書を二条関白に送り、水戸藩主徳川慶篤への沙汰の猶予・天狗党西上組救解の不可を論じました

(二条関白宛ての手紙のてきとう訳)
・・・・この度の「賊徒」が追々禁闕に近づいているのも、畢竟、水戸中納言(藩主徳川慶篤。慶喜実兄)が処置を失った事ゆえに、同人に御沙汰あらせられるべしとの趣を、清一郎(因幡藩士安達清一郎(清風))から委細承りました。誠に御尤も至極ですが、先便でも大略申上げました通り、只今は御沙汰をされるべきではないと存じます。賊徒を未だ鎮定する前に、水戸家に御沙汰があっては、兼てから正義を唱える武田のことですから、(朝廷が)陰に(武田達を)御助けになる思召しなどと、関東(=江戸の幕府)が思い違いをした時は、天朝の御誠意も貫徹せぬだけでなく、かえって「意外の大乱」を生じましょう。それだけではなく、「賊徒」もまた勢いを得て、今日鎮定できるものが明日になるだろうと愚考仕ります。一体右の「賊徒」には、止むを得ぬ「情実」もありますが、とにかく幕軍へ敵対いたした罪をもって、天朝においても追討を仰せ付けられました。恐れながら、その原因は、水戸家で処置を誤ったからだと御咎めになれば、同人(=慶篤)も一言の申上げようもありません。そうなれば、「賊徒」も御追討、水戸家は朝譴ということになります。・・・今、御沙汰をなされれば、賊徒を勢い付け、「関東ニ而疑惑」を生じる、この二つ(の結果)よりほかにあるまいと存じます。一体、右の「賊徒」を救うべきとの論もありますが、救うべき望みは万一にもありえまい(「可救望万々有之間敷」)と存じます。

清一郎の内話では、私の留守中に仰せ出されれば、関東においても私一身を「狐疑」仕るまいとの尊慮だとのこと、誠にありがたき仕合せに存じますが、当駅(=大津)は帝都から三里で、日々一両度往復できますので・・・たとえ留守中に仰せ出されても(自分に)御相談なしとは誰も存じ申さないでしょう。公明正大に論じれば、水戸家の件は、衆論が一定することと存じ奉ります。そのうえでなら、たとえ私の帰京の上で仰せ出されたとしても、衆論の帰するところですので、「狐疑」仕る者もありますまいと存じます。

また、当今、防長の敵情が少し混乱の様子だと承りますので、少しも早く「賊徒」を追討仕りたく存じます。幕府へ敵対する者は朝廷においても速に追討を仰せつけられると申すことが顕然になれば、まして禁闕に砲発の者共(=長州)は、関東において寛大の処置を仕り難い道理と存じます。もし、(幕府が長州に)寛大の処置を仕れば、いかようにも御沙汰をされてしかるべしと存じます。

前文の次第は、くれぐれも御猶予されるよう願い奉ります。

<ヒロ>
「綱要」によると、これより先、藩内紛擾を譴めて慶篤を隠居させ、弟松平昭徳(慶喜とともに出陣中・会津藩主松平容保の養子縁組の話が進行中)に相続させようという朝議があったそうです。ちなみに、慶喜の反対があってか、その件は、翌13日とりやめになったとか。

幕府の慶喜への「狐疑」については、朝廷でも公然と語られていることが、この手紙からもよくわかりますよね。今回は、特に、慶喜が耕雲斎らと内通しているのではないかというものだったようです。そして因幡藩(藩主池田慶徳が水戸家出身で慶喜の異母兄)など耕雲斎ら西上水戸浪士に同情的な勢力の運動が、かえって慶喜を追い詰め、強硬路線をとらせているようです。(慶喜も、筑波挙兵の当初は、彼らを「正義」とし、兄を「奸党」になじんでいるとか「因循」だとか批判していたのですが)

また、草津附近までやってきている老中松前崇広が上京したいと考えていること、自分は(逆に)追討のために大津を出立することを伝えました。
一、松前伊豆守(=老中松前崇広)の西上は、全く長州表への用向きと申すことでございます。(江戸を)出立後、途中で賊徒の様子を承知いたし、追討に向かおうとしたところ、賊徒が越前領に入り込みましたので、まず、当駅(=大津)に暫時滞留し、様子によって上京も仕りたいとの含みですから、御心配されることはあるまいと存じます。
一、私は、当駅に滞留しておりますが、賊徒が追々今庄あたりに押し寄せていると申します・・・今後の注進をもって出立したのでは間に合いませんので・・・明13日、当駅を出立して堅田(かたた)に向かい、明後日大溝に着く心得で、その後は情勢次第に存じます。兼ての御沙汰もありますので、なるだけ当駅に滞留仕るべきと存じますが、止むを得ず出張仕りますので、悪しからず御推察願い奉ります。もちろん、御用がございましたら、すぐさま引き返すつもりでございます・・・。

<ヒロ>
松前老中は11月19日に西上を命じられ(こちら)、11月23日に江戸を出立し、中山道を通って西上していました(こちら)。表向きは長州表の御用が目的だとされていますが、その裏の目的は、海路西上予定の若年寄立花出雲守とともに、水戸の血筋で「非常の大胆、専不羈の御志」である一橋慶喜を京都から遠ざけ、江戸へ連れ戻すことだとされています(こちら)

慶喜の江戸召喚の噂は、10月下旬には京都に届いており、守護職松平容保が幕府に異を唱えていました(こちら)。11月下旬には、薩摩藩家老小松帯刀が、慶喜と面談し、幕府による一会桑の江戸召喚&朝廷軽蔑回帰阻止には、老中取り換えか諸藩・朝廷と連携した政変を起こすしかないと勧めていましたので(こちら)、慶喜も十分承知の上で、この手紙を書いています。

この日、松前老中は石部宿(滋賀県。東海道53次の51番目)?まで来ており、慶喜は滝川播磨守を使者として送り、様子を確認していました。松前は、13日に草津、14日に大津に入り、15日に上京するのですが、慶喜は、松前と入れ違いに大津を発ちますので、両者はニアミスに終わります。わざとじゃないかと勘繰ってしまうタイミングです。

最後に、自分の留守の間は、会津・桑名に何事も相談するよう改めて求めました。
再白、前文の次第は、定めて会・桑両藩へ御相談あらせられたと存じます。兼て7月に申し上げ置きました通り、大小巨細関係なく、両藩へ御相談あらせられますよう願い奉ります。

<ヒロ>
慶喜が、一会桑で固める(他藩排除)方針をここまで強調した文書を書いたのは初めて?7月に申し上げたことが何か探せれば、追加しにきます。

まあ、慶喜にしてみれば、自分の留守中、仮想敵な薩摩藩が気になるのはもちろんですが、因幡藩(親戚だけど親長州で過激)にも肥後藩(朝幕協調派で対長州強硬派)にも、朝廷によけいなこと入説するのを「やめてくれよ」という気分になるのはわかる気も。二条関白は、どうも影響されやすいようですものね。一方、会津・桑名は職分を弁えていて、慶喜不在時に何か決断するとは思えず、何かあれば「待て」をかけてくれそうです。

参考:『徳川慶喜公伝 史料篇』二p214、12月13日付松平越中守宛松前伊豆守書簡「会津藩庁記録」(綱要DB 12月12日条 No89) (2018/9/12)
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【大津】元治元年12月12日(1.9)夜、禁裏守衛総督一橋慶喜は、肥後藩主細川慶順弟長岡良之助に書を送って、征長総督徳川慶勝の処置に疑問を呈し、「大島」という「芋」に酔うという説の真偽を尋ねました
(てきとう訳)
・・・今般・・・実家脱藩者の多人数上京について、幕府よりもそれぞれ討手を差し出したが切り抜け、江州路に到達したという。この上、上京となると、天朝に対し何とも恐れ入る次第であり、殊に実家の者である点は別けて恐れ入るので、追討を天朝に願ったところ、御許容になり、大津駅まで出張している。・・・敵は総勢千人余で、烏合の衆・・・今少し多人数ならば戦の稽古になったと存じる。いずれ不日鎮定になるはずである。・・・

さて、防長の形勢はいかがだろうか。「種々の浮説」があるが、すべて要領を得ず、少なからず痛心している・・・「総督の英気至て薄く、芋によい候、酒よりも甚敷との説、芋の銘は大島とか申由」は実事だろうか。尊藩の御定論ならびに各藩の議論を承知したく、ご教示願いたい。風聞にて承知していることは、益田等三家老の首級を吉川へ返還したとのこと、如何なる深意がありそのような取り計らったのか、「凡心にて総督の底意難解」、御承知であればお漏らし願いたい。七卿の件も、種々の風聞があるが、どうなっているのか。当今の情態では結句がどうなるか、痛心している。御承知のことをすべて何事によらずお知らせいただきたい。

極月
    十二日夜認       剛
      良公 机下

<ヒロ>
12月10日には、朝廷内でも「大島裏表」という説が流れていましたし、吉之助、がぜん、有名人(悪名の方ですが)になりつつあります。

慶喜は、長州が京都に迫って嘆願を繰り返しているころは穏健な解決策を模索していましたが、いったん、追討令が発されると陣頭指揮を執って獅子奮迅の活躍。その勢いをかって、自ら征長総督として「朝敵」である長州を時間を置かずに討つつもりでした。上掲の二条関白への手紙でも、天狗追討と比較して、「幕府へ敵対する者(=天狗党)は朝廷においても速に追討を仰せつけられると申すことが顕然になれば、まして禁闕に砲発の者共(=長州)は、関東において寛大の処置を仕り難い道理」と述べています。それだけに、よけいに「朝敵」に対する慶勝の寛大な処置が理解しがたいのかな、と思います。

この頃、長岡良之助(護美)は、藩主名代として、小倉に出陣中です(肥後藩の攻め口は下関)。小倉には征長副将の越前藩主松平茂昭も滞陣しています。慶喜は、半年前に彼に出した手紙では、良之助のことを「我を知る者良公より外」にないと言っており(6/18)、信頼しているのですが、良之助は良之助で、征長に関して島津久光とも頻繁に書簡のやり取りをしており、11月23日の久光宛て書簡では、長州恭順について「御家臣西郷」が副将・越前藩主松平茂昭に報告したと知らせていますし、12月28日には「先頃来万事西郷吉之助と申談候末、於越邸面語仕、大慶に存申候。実以人物感服仕候」と記しています。良之助も「芋」に酔ってしまうのでした。

また、慶喜が良之助にあてた6月の手紙ではまだ、天狗党や武田耕雲斎を「正義」だとみなしていました・・・。それが今回は、もう少し人数が多ければ「戦の稽古」になったのに・・・などと好戦的な文章です。これも、疑いを避けるために、敢て、なんでしょうか。、

※自分のてきとう訳のバリエーションがなさすぎなのですが、原文はわりと丁寧な感じです。「剛」は慶喜が私信でよく使う名前です。「剛情公」というあだ名からきています。

参考:『徳川慶喜公伝 史料篇』二p214(2018/9/12)
関連:テーマ別元治1 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>天狗西上
【敦賀】元治元年12月12日(1.9)、京都を目指して西上してきた武田耕雲斎ら天狗党は、前方(葉原)に布陣する加賀藩に抗戦しないと決し、藤田小四郎らを派遣して、一橋慶喜宛ての嘆願書及び始末書を差し出、取次を懇願しました。

加賀藩はこれらの文書を受理し、一橋慶喜の本陣に提出するため、藩士を差し向けることとしました。

(経緯)
元水戸藩執政武田耕雲斎や藤田小四郎ら筑波勢ら約800名は、京都の一橋慶喜を頼って朝廷に攘夷の素志を訴えることに決し、11月1日、耕雲斎を総帥として西上を始めた。慶喜は烈公の実子で文久3年に上洛した際には水戸藩から相談相手として借り受けていたくらい関係の深い人物だった。

耕雲斎らは、諸藩との衝突を避けて間道を通り、12月11日に越前新保(敦賀)に到着したが、新保からほど近くの葉原駅には加賀藩が在陣していた。耕雲斎は、加賀藩に使者と書を送って西上の目的(嘆願)と諸藩に敵意のないことを伝えさせたが、加賀藩の返答は、慶喜加勢で出張しているため一戦するしかないというものだった。

耕雲斎らは、自分たちが気持ちを訴えようと西上してきた相手である慶喜こそが追討軍主将として大津に宿陣し、中山道には水戸藩公子の徳川昭徳が先鋒として守山駅に出張、その他小田原・会津・桑名・越前等の諸藩も続々出陣していることを知った。同夜、耕雲斎はさらに書を加賀藩陣営に送り、加賀藩は慶喜の加勢であるので、是非自分たちの素懐を熟談したい、それを慶喜に通してもらえまいかと嘆願した。

加賀藩では評議の結果、降伏の情態がある者を討つのは不適切であり武門の習いとしても本意ではないと一決し、使者を耕雲斎らの陣営に送った。そして彼らの話を聞き取った結果、その趣を書面をもって提出するよう求めて帰陣した。

この夜、耕雲斎らの陣営では、降伏について議論が沸騰したという。山陰道を通って長州と合流しようという主張や、降伏しても宍戸藩主松平頼徳らの轍を踏むだけであり、潔く討死して赤心を天に訴えようと論じる者もいたが、耕雲斎らは、ここまで切り抜けてきたのは、尊攘を大義として至情を慶喜に訴えるためであり、その慶喜の先鋒である加賀藩に抗戦するのは本意ではない、と彼らを説得したという。

参考:『波山始末』p119-133(2018/9/15)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1■水戸藩/天狗諸生争乱

その他の主な動き
<五卿移転>
・【関】薩摩藩士西郷吉之助・同吉井幸輔・同税所長蔵、関に至り、筑前藩士月形洗蔵等と会し、五卿の筑前移転の事を議す(11日?)
・【萩】長州藩主毛利敬親、支族長府領主毛利元周及び同清末領主毛利元純に、諸隊の鎮撫・五卿移転の斡旋を依嘱
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)(2018/9/10)

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