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元治1年11月23日(1864.12.21)
 【京】御前会議にて、将軍進発督促の勅使の中止決定
【京】朝廷、老中召命を評議
【江】老中松前崇広、陸路西上へ(慶喜の江戸召喚が目的)

◆11/22【天狗西上】幕府、所司代松平定敬に、浪士武田正生等の西上を報じ、京地の警守に備えさせる

☆京都のお天気:晴飛雪粉々 (嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
■将軍進発問題
〇勅使東下問題
【京】元治元年11月23日、 御前会議において、将軍進発督促の勅使派遣の中止が決定されました。

<経緯>
将軍上坂の朝命は8月末に下っており(こちら)、10月1日には参内した老中阿部正外が、将軍進発を進めるよう命じられていました(こちら)。しかし、なかなか進発しないので、将軍進発督促の勅使の評議が起こり、11月2日には、中川宮からそのことを伝え聞いた京都守護職松平容保が、将軍や江戸老中に報じていました。その中で、容保は、禁裏守衛総督一橋慶喜や所司代・桑名藩主松平定敬(弟)とともに勅使派遣阻止に尽力しているが、速やか進発してほしいと要請していました(こちら)。11月10日には、御前会議に勅使派遣の件が持ち出されましたが、そのときは、慶喜が尽力しているというので、暫時見合せとなっていました(こちら)。今回も、会津藩や慶喜が頑張ったようです。

参考:「嵯峨実愛日記」『綱本』(綱要DB 11月10日条 No135)(2018/8/27)

〇老中召命の評議
【京】元治元年11月23日、 朝廷において、老中召命の評議が行われました。

この日の朝議では、議奏柳原光愛等から、老中が召命に応じない際の対応を評決した上で召命したほうがいいとの意見があり、禁裏守衛総督一橋慶喜等へ相談することになりました。

これに対し、慶喜は、厚く勘考するので、それまでは延期をするよう願い出たそうです。

<ヒロ>
将軍がなかなか進発しないので、今度は老中を呼び出そうというわけです。在京だった稲葉正邦が征長に出陣して、京都には老中不在でした。外国船が摂海に押し寄せてきたときにも都合がいいと考えられたようです。

参考:『朝彦親王日記』(綱要DB 11月23日条 No137)(2018/9/1)

■長州処分
【芸州】元治元年11月23日、 征長総督徳川慶勝は、長州藩主毛利敬親父子の服罪により、その処置の諮問のために出征諸藩の重臣を広島に召集しました。また、諸藩主で自ら所見を開陳したい者は、芸州まで来るよう達しました。(綱要)

【小倉】元治元年11月23日、 薩摩藩士西郷吉之助が吉井幸輔とともに、小倉の越前藩(征長副将)陣営を訪ね、征長総督徳川慶勝の内意によって、岩国で長州藩の恭順謝罪に周旋した事情を、また征長総督府が幕府に諮らずに撤兵三条件を出した事情を、同藩重臣に説明しました。

<ヒロ>
越前藩でも、うすうす感じていたものの、薩摩藩が恭順周旋していることを、征長副将たる越前藩にも内密にされていたことには良い気はしなかったのではないでしょうか。(さらに、越前藩こだわりの「面縛開城」も西郷は否定しています)。

このとき、西郷たちが小倉に来ていたのは、五卿の移転について諸藩と話し合うためでもありましたが、そのことには具体的には触れなかった様子です。

【小倉】元治元年11月23日、 肥後藩主弟長岡良之助は薩摩藩主父・島津久光に書を記し、総督府の方針に賛意を示すとともに、「皇都天下之基本相立不申候テハ長征十分相立候テモ何之栓モ有之間敷」との考えを示しました。。

参考:『幕末越前藩公用日記』(本多修理日記)、『島津久光公実紀』ニp301-303(2018/9/1)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

>一橋慶喜の江戸呼び戻し計画
■老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵西上

【江】元治元年11月23日、老中松前崇広が、率兵して江戸を出立し、陸路西上の途につきましました。大目付大久保忠宣(紀伊守)・目付山口毅(駿河守)が随行しました

<ヒロ>
表向きは長州処分のためなのですが、実際は、一橋慶喜を江戸に連れ戻すことを目的としていたといわれています。

12月3日に勝海舟が、薩摩藩士高崎左太郎から聞いた話によると、「ある人」が薩摩に次のように密報したそうです・・・
松前候の上京は、橋公の(京都)放逐のためである。もし、公がこれを御不承知であれば御自刃させようとの策がある。ある説には、天下の形勢がこうなったのも、前水老公(=慶喜の実父の徳川斉昭)の「奸謀」が原因で、橋公もまた、「非常の大胆、専不羈の御志」がある。故に、この公を倒さねばならぬ。京間の役人及び西国大名は、皆、その毒に酔っている。・・・

なお、当時江戸にいた会津藩京都公用人は、松前老中が陸路をとることについて、翌24日付の京都への手紙の中で、「甲州路よりお上りの由、武田耕雲斎、甲州へ越し候風聞これあり候につき、御見廻りなされ候由、愚察には、なるたけ手間取り、芸州辺へ御出でなされ候ころは、もはや長州辺は降参に成りおり候えば、御進発は御見合せの中心なさるべき策略か」と記しています。(薩摩藩と会津藩の情報収集の差が・・・)

参考:『徳川慶喜公伝』3、『京都守護職始末』2p130、『勝海舟全集1 幕末日記』p171(2018/9/8)
関連:■テーマ別元治1「一会(桑)VS在府幕府首脳

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