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文久2年閏8月8日(1862年10月1日)
宇都宮藩、山陵修築の建白を幕府に提出

■山陵奉行
文久2年閏8月8日、宇都宮藩主戸田忠恕(越前守)は山陵(=天皇陵)修築の建白を老中板倉勝静に提出しました。

<ヒロ>
宇都宮藩の修陵の建白は、現在の天皇陵管理に大きな影響を及ぼしていきます。今日の陵墓の管理のあり方は「文久年間(1861〜64)にかけて行われたいわゆる文久の修陵にその淵源が求められる。その文久の修陵は文久2年(1862)閏8月8日に下野(栃木県)の宇都宮藩主戸田忠恕によって幕府に差し出された「修陵の建白」に端を発する」(外池昇『天皇陵の近代史』)からです。

ところで、修陵の建白は藩主戸田忠恕の名で出されましたが、忠恕は弱冠15歳であり、主動的役割を果たしたのは、当時藩政を仕切っていた家老間瀬和三郎(52歳)でした。間瀬はその後山陵奉行に任ぜられ、修陵事業を差配することになります。外池氏によれば「宇都宮藩と文久の修陵の関係の特徴は、宇都宮藩が全体として文久の修陵に取り組んだのではなく、もっぱら戸田忠至(ヒロ注:間瀬和三郎)がその差配にあたった点にある」ほどでした。(御陵衛士を預かった戸田大和守とはこの人物のことです)。

修陵といってもピンとこないと思うのですが、陵墓はかなり荒れ果てた状況にあったようで、どの陵墓に誰が埋葬されているかも明らかではなく、農業が営まれていたりもしたそうです。幕末で修陵の重要性を説いたのは宇都宮藩が最初ではありませんでした。あの水戸藩の烈公こと徳川斉昭が、天保5年に(神武)天皇陵の建議を行っていますし(老中大久保忠真に却下されました)、安政年間には安島帯刀・鵜飼吉左衛門(水戸藩士。ともに戊午の密勅に連座して安政の大獄で刑死)、伴林六郎(のちの天誅組メンバー)らも調査を行っています。尊王心篤い人たちにとって修陵は一つのアジェンダであったのです。文久2年7月23日には、勅使大原重徳が将軍後見職一橋慶喜と政事総裁職松平春嶽に対して差し出した勅使11か条の要求の中で、山陵を修復して代拝の儀式等を行うことを挙げています(慶喜らは実行を約束しています。天保5年の斉昭の建白に対する幕府の対応とは大違いで興味深いところです)。宇都宮藩の建白は時宜にかなっていたともいえますが、間瀬が修陵事業に関する運動を始めたのはそれより前の文久元年でした。

宇都宮藩は畿内から遠い譜代の小藩です。その宇都宮藩がなぜ修陵を建白したのか、また間瀬(戸田大和守)が個人的情熱をかけたのはなぜか・・・いろいろな説があるようです(居酒屋にこの件に関する投稿があります)。わたしはまだまだ入り口についたところで自分の意見といえるようなものをもっていませんが、衛士と直接関わることですので、間瀬がどのような人物であったのかを含め、のんびり調べていきたいと思っています。(そのうち「徒然に」に雑感を載せますのでよかったら御覧になってくださいね^^)。

<参考>『続再夢紀事』、『徳川慶喜公伝』、『天皇陵の近代史』(2001.10.1)
関連:◆文久2年閏8月8日−宇都宮藩、幕府に山陵修復の建白 閏8月10日-幕府、宇都宮藩の山陵修復の建白を採用 閏8/14:宇都宮藩主戸田忠恕、山陵修補御用掛に

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