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文久2年7月23日(1862年8月18日)
会見:勅使11か条の要求を伝達。

■勅使大原との会見(勅使11か条の要求)
【江】文久2年7月23日、勅使大原重徳は、招きに応じて訪問した一橋慶喜と松平春嶽に対して、11か条の要求を示しました。このとき、島津久光も陪席しました。勅使の伝えた11か条、及び慶喜の回答は以下に要約するとおり。

勅使大原重徳の要求 後見職一橋慶喜の回答
1 前所司代酒井若狭守は罷免後も滞京しており、人心穏やかでないので即時召還のこと 速やかに実行
2 新所司代本庄宗秀は(井伊直弼と近しかったので)人心に合わず転任させること 勘考
3 大坂城代松平信古は間部詮勝次男で人望に適さず、転任させること 間部の子という理由だけでは転任させられない
4 和宮のために御守殿を造営すること 夫婦の仲が疎遠となり、間言も行われやすく、為にならない。
5 敏宮(孝明天皇姉)への歳費を増額すること 調査の上実行
6 皇子女の処置を改めること 速やかに実行
7 山陵を修復し、代拝の儀式等を行うこと 速やかに実行
8 和宮上京の件 調査が必要
9 京都市中の窮民を救うこと 調査が必要
10 大赦を行うこと 既に将軍裁可が降りている
11 両人(=慶喜・春嶽)の成果に見るものがないのは老中等に斟酌あるせいではないか。 大事業なので猶予を欲しい。老中等に斟酌しているのではない。

このあと、慶喜は、幕政改革の方針として、弊政を改め、万民を安んじ、武備を強化し、海軍を振興すること等を述べ、さらに「今後とも至当の儀は速やかに遵奉すべければ、思召次第仰出されたし、されど時勢に於て行はれ難き不条理なる儀はたとひ叡慮を以て仰下されたる事なりとも、御請けに及び難き故に、予め御断り申上げ置く」と釘をさしました。

幕府では、会見で勅使の出した要求は薩摩藩の意見であるとし、大原を薩摩藩の傀儡視して、薩摩藩への嫌悪がいやましたといいます。

参考:『徳川慶喜公伝』・『維新史』(2001.8.18、2003.10.24)
関連■テーマ別文久2「勅使11ヶ条の要求

■公武合体派排斥・「天誅」
【京】文久2年7月23日、3日前に暗殺された島田左近の首が四条河原に晒されました

島田左近は安政の大獄時の関白九条尚忠(辞任)の家臣です。捨札には、「大逆賊長野主膳え同服(同腹)いたし、不謂奸曲を相巧、天地ニ不可容大賊也」とされていました。暗殺犯は、薩摩藩激派の藤井良節らに示唆された田中新兵衛・鵜木孫兵衛・志々目献吉だといわれています。

参考>『徳川慶喜公伝』・『維新史』(2001.8.18)
関連■テーマ別文久2「公武合体派排斥・「天誅」


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