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■親兵解散 【京】文久3年8月25日、薩摩・土佐両藩は親兵の解散を建議しました。 「御守護の儀は、これまで御先規もあらせられず候處、暴論の徒、追々建白仕り候段之有り、畢竟兵力を借り、高貴の御方へ迫り、自己の暴威を回し、或は無名の刑獄を起こし、ついに叡旨を矯め候にいたり、京師の騒擾を醸し候こと、実にもって国家の妨害、甚だしかるべからず御事と存じ奉り候。万一緩急の変でき候節も、畢竟、烏合の徒、元帥任もござなく、何の御用にも相立ち申す間敷存じ奉り候、方今、列藩の重兵を以て警衛仕り候上は、いよいよもって速かに相免じ候て、各藩へさし返し候様仕りたく存じ奉り候。此段申上げ候、以上」(『七年史』引用の建言書・読み下しbyヒロ) この建言をうけて、親兵は9月5日に解散となります。 <ヒロ> 親兵はもともと長州藩・土佐藩の激派の運動によって設置されたものでした。土佐藩の激派(土佐勤王党)は、当時、土佐に戻っており、滞京していたのは、いわゆる公武合体派の人々でした。で、当時の人は「長藩の施設(=親兵)は会薩二藩によりて破壊せらるといへり」(「川瀬教文日記抄」『徳川慶喜公伝』)だったそうです。もちろん、会津藩は親兵設置には終始反対であり、会津は一藩をもって京都を守護しているという理由で親兵に藩兵を差し出してはいないほどでしたが。 関連■テーマ別文久3年:「親兵設置・宮門警備問題」 参考:『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2(2001.10.7) ★・★・★ 同日、桂小五郎の同志である長州の間者(御倉伊勢武、荒木田左馬之助、越後三郎、及び松井竜次郎)4名が壬生浪士に入隊したといいます。近藤は彼らを長州間者と見抜いたがわざと入隊させ、「国事探偵」の職を授けて、金100両を渡したとされています。(永倉新八の回想をもとにした読み物『新撰組顛末記』) 永倉直筆の「浪士文久報国記事」では、近藤・芹沢両名が間者と知りつつ入隊さえ、周旋方を申しつけて永倉を間者としてさしむけたとしています。 <ヒロ> 平尾道雄著『新撰組史録』所収の名簿(出典不明。禁門の政変以前のものと推測される)に、荒木田、越後、及び御倉が掲載されているので(御倉は小倉伊勢武と記されている)、彼らがそろってこの日に入隊したという『顛末記』の記述は誤りです。また、明治初期に書かれた「報国記事」では11月頃の話とされていますが、これも同様に記憶違いになります。大正年間の回想談が明治初期の直筆の記録より正確だとはあまり思えないので、25日には参考程度の日付だと考えた方がいいと思われます。まあ、松井の入隊した日なのかもしれませんし、仮入隊だったのを正式入隊にした日だとも考えられるかもしれませんが。 このほか、禁門の政変以前に入隊した楠小十郎・佐伯又三郎も、長州の久坂玄瑞の送り込んだ間者だという資料があります。新見錦の長州間者説(霊山博物館の木村幸比古氏)もあります。 <参考>『新撰組史録』・『新選組戦場日記』(2000.10.7) 関連:長州藩日誌文久3 |
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