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元治1年11月4日(1864月12月.2日)
 【岩国】薩摩藩士西郷吉之助・吉井幸輔・税所長蔵、征長総督徳川慶勝の内命に依り、
長州藩支族吉川監物(経幹)と会見

【長州】慶親は毛利敬親、定広は広封と改名

◆11/3【坂】老中稲葉正邦、芸州に向けて出立【坂】幕府、京都敗走潜伏の長州藩士市川孫七等七人を斬り、梟首。

☆京都のお天気:快晴 (嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
■長州・反恭順謝罪(急進派諸隊)の動き
【山口】元治元年11月4日、山口に集結した急進派諸隊(奇兵隊等)は、藩主父子に対し、三家老処罰不可、藩主の山口帰還と武備充実等を訴える建言書を提出しました。

長州藩では、恭順謝罪派が藩政を掌握し、藩主も萩に移っていました。藩是は恭順謝罪で決まっていたのですが、武備恭順派の急進派諸隊は依然として、恭順謝罪に反対しました。10月20日には諸隊の解散が命じられましたが、これに応じず、三条実美ら五卿を奉じて、この日、山口に入っていました。

参考:『維新史』四p176-177(2018/8/27)

■恭順謝罪の周旋
〇総督府密使の周旋
【岩国】元治元年11月4日、 征長総督徳川慶勝の内命により、薩摩藩士西郷吉之助・吉井幸輔・税所長蔵が岩国に入り、長州藩支族吉川監物と面会し、速やかに恭順謝罪の実効を挙げるよう述べました。

三名は、総督の内命を受けてきたことを告げた上で、宗家の恭順謝罪が未だに実効を上げていないのは甚だしく不都合であり、速やかに(監物が差し出した嘆願書の内容通り)元三家老の首級を差し出し、その参謀の徒を厳罰に処置して、届け出るべきだと述べたそうです。

監物は、家士を萩に遣し、これを藩主毛利敬親に報じました。(密使3名は、5日朝に再び芸州に向かったそうです)

<ヒロ>
三家老の処刑・首実検と激派の厳罰は規定路線だったので、それを促したっていうことです。(それにしても、一諸に芸州迄来たはずの尾張藩若井鍬吉はどうしちゃったんでしょう?)

参考:「吉川経幹周旋記」『綱本』(綱要DB 11月4日条)(2018/8/27)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

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