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元治1年11月10日(1864年12月8日)
【京】御前会議において、将軍家茂進発督促の勅使派遣見合せを決定。
【江】勝海舟、軍艦奉行を罷免され寄合入りへ
【江】野村左兵衛、上京へ

◆11/6【京】薩摩藩家老小松帯刀、在藩の大久保一蔵・蓑田伝兵衛に、征長に関する上国の情勢を報ず(一橋慶喜が参内はするが政治向きのことは関わっていない、長州寛典を説かせるために高崎五六を江戸に派遣。
◆11/7【天狗・諸生】幕府、水戸藩武田耕雲斎の官位剥奪
◆11/8【芸州】薩摩藩藩士西郷吉之助、書を長州藩支族家臣に寄せ、禁門の変に捕縛した萩藩士卒10名の送還を報じる【江】会津藩家老高橋外記等、藩財政の事情を在京都及江戸の家老に報じる。


☆京都のお天気: 晴(嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
■将軍進発問題
〇勅使東下問題
【江】元治元年11月10日、 会津藩江戸家老は、在京家老に対して書状を認め、勅使東下の評議を伝えて将軍進発を督促するために東下した、使者・公用人小森久太郎が、幕閣に会えないでいると知らせました。

(経緯)
将軍上坂の朝命は8月末に下っており(こちら)、10月1日には参内した老中阿部正外が、将軍進発を進めるよう命じられていました(こちら)。それでもいっこうに進発しないため、督促の勅使を送るという評議が起っていたそうで、そのことを中川宮からそれを知らされた容保は、、11月2日、将軍及び老中に親書を認め、進発督促の勅使をの東下させる評議があること、食い止めている間に、速やかに進発するよう促しました(こちら)。同時に、事情を説明する使者として、小森久太郎が早駕籠で東下し、7日に江戸に到着していました。

<ヒロ>
相変わらずな幕閣です。

【江】同じ日、将軍進発周旋のために8月から江戸に滞在していた公用人野村左兵衛が、江戸の情勢を伝えるために、小森久太郎に代って帰京していきました

野村は、将軍上洛・征長指揮を促すため、老中阿部正外に随従して東下し、周旋をしていましたが、任務を果たせないままの帰国となりました。

関連:「会津藩公用人野村左兵衛
参考:11月10日付神保内蔵助殿・一瀬要人殿・内藤近之助殿・西郷文吾殿宛上田一学書簡「会津藩庁記録」(綱要DB 11/2 No14)(2018/8/31)

【京】元治元年11月10日、 御前会議で将軍進発督促の勅使を送る件が持ち出されましたが、「兼々一橋入魂」であるので、とりあえず見合せになりました。

<ヒロ>
とうとう御前会議にまで・・・。「兼々一橋入魂」とは、慶喜が将軍進発について尽力しているということでしょうか。

参考:「嵯峨実愛日記」『綱本』(綱要DB 11月10日条)(2018/8/27)
*ちなみに、日本史籍協会編の『嵯峨実愛日記』の方には勅使派遣の朝議は載ってませんでした。編集されているようです。その当時は不都合な記録だったんでしょうか?

>勝海舟、江戸召喚
【坂】元治元年11月10日、勝海舟は軍艦奉行を罷免され、寄合入りを命じられました。

勝は、11月2日に「御用のため」東帰して、すぐに登城して老中阿部正外に面会しましたが、「不快」を理由に、出勤を免じてもらっていました。

11月5日には、「或人」から、幕府では、老中諏訪忠誠、若年寄酒井飛騨守、老中格松前崇広が勢いをふるい、逆らえば排斥され、諸侯の使者の旨は無視され、京都の事情は将軍の耳に入らないようにしているという事情を聞きました。

11月9日にも、今度は、柴田権之進から、諏訪・松前のせいで言路が閉塞し、「大奸国家を誤たん」という説が起っていると聞きました。そのことについて、日記に「独り焦思深慮すれども、其志、上達せず、愁鬱に堪えず、涕泣するのみ」との嘆きを記しています。その夜、老中水野から、明日登城するよう奉書が届き、病気なら代理でもいいというので、軍艦奉行並の石野則常に登城するよう頼みました。日記には、そのことに続けて次のように書いています。
 我微力を以て奉仕すること爰に三年。其間、死生を弁ぜず、尽力すること、無数。唯邦国の安危存亡を以て任とし、顧みず。言用いられず、志達せず。終に俗吏の為に塞がれ、如何ともすること能わず。然れ共、一片の赤心、天下豈知る人なからむや。
 依然として栄辱に志なし、唯累代の国恩に報ゆる而巳。他、何をか省みむ

<ヒロ>
三年前というと、文久2年。軍艦操練所の頭取として復帰(7月)、軍艦奉行並に就任(閏8月)。海軍強化に取り組み始めた頃です。道半ば、「俗吏」のために表舞台を去ることになります。でも、寄合という旗本の身分はそのままなので、降格ではないんですよね。更迭の理由は日記には書かれていないです。勝海舟関係の書籍を読んでみても、明確なことはわかっていないようで、神戸の塾に脱藩浪士を抱えていることを調べられた(9/19)ことが更迭につながっているというのが定説のようです。10月上旬に帰府した阿部老中に確認の上、召喚が決まったのではと思います。勝は阿部老中を高く評価しており、幕政改革は阿部を旗印にするしかないとまで思っていましたが、阿部の方は、越前藩による勝の重用の提案をしぶっていました。危険人物だとみられていたんです。

参考:『勝海舟日記』一p170-171、『勝海舟』p168(2018/8/31)
関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年

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