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◆10/25【坂】征長総督麾下の先鋒諸隊、出陣 ◆10/26(【坂】薩摩藩士西郷吉之助、吉井幸輔、尾張藩士若井鍬吉と共に、長州恭順周旋に大坂を発し西下 ◆10/27【坂】老中稲葉正邦、兵を率いて着坂/【京】東下していた近藤勇、新隊士らと京都到着(伊東甲子太郎らは後日の可能性もあり) ◆11/1【坂】征長総督徳川慶勝、大坂を出立・芸州へ。【長州】萩藩主毛利敬親、藩政庁を萩に復し、以後、有司の任免黜陟を行う ☆京都のお天気:快晴(嵯峨実愛日記) >第一次幕長戦 ■将軍進発問題 〇勅使東下問題 【京】元治元年11月2日、 京都守護職松平容保は、将軍及び在府老中に対して親書を認め、将軍進発の勅使東下の評議を食い止めていることを報じるとともに、将軍の速やかな進発を督促しました。 征長軍は続々と出陣していきますが、中川宮を始めとする朝廷では、将軍の進発を強く望んでいました。この頃、中川宮が会津藩公用人久太郎を召して、<将軍進発の勅命を再三出しているのに未だ進発がなく、もはや朝廷では勅使を派遣するしかないということでほぼ決した>と述べたそうです。(将軍上坂の朝命は8月末に下っており(こちら)、10月1日には参内した老中阿部正外が、将軍進発を進めるよう命じられていました(こちら))。一寛から報告を受けた容保は、将軍及び老中に親書を認め、公用人の小森久太郎を使者として派遣することにしました。 (将軍への親書のてきとう訳)
老中への親書では、さらに<今のところ制止しているが、この上御延引があれば、勅使をいよいよ派遣される形勢にみえる。自分でも(延引については)度々申上げているので、これ以上も申し上げようもなく、かといって勅使差し止めの力もない>との事情をうちわけ、進発を促しています。 <ヒロ> まさか、異母兄の徳川慶勝が薩摩藩と手を組んで長州恭順による戦争回避をもくろんでいるとは、考えもしない容保でした。なお、日付は「会津藩庁記録」の11月2日。『京都守護職始末』では10月29日とされています。 参考:「会津藩庁記録」『稿本』(11月2日条)、『京都守護職始末』p124-126(2018/8/27) ■征長軍の動き 【坂】元治元年11月2日、 前1日の征長総督徳川慶勝の芸州への進軍に続き、征長副将松平茂昭が、兵を率いて海路九州へ出立しました。(翌3日には老中稲葉正邦が芸州に向けて出立) 【芸州】元治元年11月2日、 芸州藩は、藩士寺西盛登・寺尾生十郎を長州藩に遣し、家老を広島に召致する幕命を伝えました。 ■恭順謝罪の周旋 〇吉川監物(経幹)の周旋 【芸州?】元治元年11月2日、 長州藩支族・岩国領主吉川監物(経幹)は、家老吉川勇記・用人塩谷鼎助を芸州藩に遣し、同藩を会して、征長総督徳川慶勝に攻撃猶予の嘆願書を提出しました。その内容は、宗藩元家老3名の首級を実検に供し、参謀を厳科に処し、元権中納言三条実美等を藩外に移転させるので、進攻を猶予してほしいというものでした。 参考:「吉川経幹周旋記」『綱本』(綱要DB 11月2日条)(2018/8/26) 〇総督府密使(西郷吉之助・吉井幸輔・若井鍬吉)の周旋 【芸州】元治元年11月2日、総督府密使(西郷吉之助・吉井幸輔・若井鍬吉)が芸州に到着しました。 参考:『維新史』四p174 〇前関白近衛忠煕の周旋? 【長州】元治元年11月2日、 前関白近衛忠煕の使者森寛斎が、萩に着き、密旨を長州藩主毛利敬親に伝えました。 密旨は寛斎・岡村熊七・平野屋嘉兵衛に伝えられ、熊七が所要のため、寛斎・嘉兵衛の2名が山口までやってきたようです。両名は政治向きのことは何も知らないようで、ただ密旨を直接藩主へ伝えたいというので、山口の藩士が、寛斎を萩まで同行し、政事堂に引き渡したそうです。密旨の内容・藩主に伝わった内容は不明だそうです。 <ヒロ> 気になる!薩摩藩のいうことをよろしく聞いて恭順謝罪するようにっていうようなことじゃないかと思いますが・・・。万一、対長州ウルトラ強硬派の孝明天皇に知れたら逆鱗にふれそうです。独断でやるとも思えないので、京都にいる薩摩藩家老小松帯刀の差し金のような気がします・(近衛前関白って、もしかすると、一会桑と連携している二条関白・中川宮とは権力争いしているのかもですね) ちなみに、森寛斎は、長州出身の絵師だそうです。『明治維新人名辞典』には、長州藩士に戻って萩と京都を往復する・・・とあるのですが、それは、この後のことのようです。 参考:「毛利敬親一代編年史」『綱本』(綱要DB 11月2日条)(2018/8/26) 関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦 >勝海舟、江戸召喚 【坂】元治元年11月2日、召喚された軍艦奉行の勝海舟が、江戸に到着し、すぐに月番老中の阿部正外に届け出ると、徳川慶勝の口上及び形勢を言上しました。 <ヒロ> 勝は10月24日に大坂を発ち、陸路江戸へ向かっていました。「御用」のために帰府を命じられているので、早速登城して阿部老中に会っています。「御用」なんていうのは呼び戻すための口実だったので、ちぐはぐな面談になったかもですね?) 参考:『勝海舟日記』一(2018/8/26) 関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年 |