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慶応3年11月10日(1867年12月5日)斉藤一、新選組に反復

慶応3年11月10日(1867年12月5日)。御陵衛士斉藤一は新選組に反復しました。(篠原泰之進『秦林親日記』)

★伊東が新選組をのっとるために屯所を焼き討ちにして近藤ら幹部を皆殺しにする計画を立てたため、間者の斎藤が、近藤・土方の妾宅にこれを告げた。(永倉新八の手記『浪士文久報国記事』)

★斎藤は御陵衛士の準備金を奪って逃走。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』)

★斎藤は伊東に敬服していたが、元島原の太夫にいれあげて準備金に手をつけ、高台寺に戻れなくなったので、情報を手土産に新選組に反復した。間者のように見えるがそうではない。(阿部隆明(十郎)談『史談会速記録』90)

★伊東は予てから近藤殺害を計画していた。間者の斎藤は、自分が近藤を殺害すると伊東に持ち掛けた。相談の結果、22日に近藤殺害・屯所襲撃と決まった。斎藤は、この情報を持って18日に新選組に反復したという。(永倉の晩年の回想をもとにしたよみもの『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
斎藤は間者で準備金に手をつけて戻れなくなったふりをした可能性(永倉説)、間者ではなく単に準備金に手をつけて高台寺にいられなくなり反復した可能性(阿部・西村説)とともに、実際に間者だったが準備金に手をつけて高台寺に居続けられなくなった可能性が考えられると思います。

ところで、フィクションなどでは定番となっている?御陵衛士の新選組襲撃計画は御陵衛士を殺した側の永倉の記録に見られるだけで、裏付けがないのです。計画が実在すれば、維新後、その存在を誇ることはあっても、隠す必要のない御陵衛士の生き残り等の証言にいっさい残っていないのも不自然です。たとえば、御陵衛士だった阿部は史談会において、(1)池田屋事件前に尊王の同志と近藤暗殺を計画したが果たせず脱走した(もちろん伊東ら加盟前である)、(2)油小路事件の復仇として沖田襲撃を計画した(襲撃したが未遂)、(3)復仇として墨染にて近藤襲撃を計画(実際に襲撃)、と近藤らに対する襲撃計画を3度まで証言しているが、御陵衛士の近藤暗殺・新選組屯所襲撃についてはなにも触れていません。

わたしには、そもそも、伊東らに近藤を殺害したり新選組屯所を襲撃したりする理由がみあたりません。

計画が実在しなかった場合、永倉が新選組の伊東暗殺を正当化するために計画の存在を創作した可能性、永倉(やほかの隊士)が新選組襲撃計画の存在を近藤・土方らによって信じ込まされていた可能性、近藤・土方自身も計画があると過剰防衛的に思い込んで入た可能性、斎藤が虚偽の報告をした可能性などがありえると思います。

だし、新選組幕臣取りたてに反発した尊王派隊士が6月に会津藩邸で横死した際、彼らを死に追いやった近藤に対し、伊東は激怒し、復仇を誓ったという島田魁の談話は残っているようです(『江戸会誌』)


<参考>『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)、『新撰組顛末記』、『新選組戦場日記』収録・引用の史料

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