12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3 テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ
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慶応3年11月10日(1867年12月5日)、春嶽は慶喜に謁見しました。慶喜は大政奉還の事情を説明し、自分の宿論であると述べたそうです。 春嶽は11月8日に入京し、10日に二条城で慶喜に謁見しました。慶喜は大変歓び、「此度の事(注:大政奉還)は土藩の建白に発し、且当時の形勢、斯くなくては眼前に四分五裂せんまでに迫りたるより此に及びたれども、其処置に至りては見る所ありての事なり。即ち従来の政体にては、如何に苦心するも政令両途(注:朝廷と幕府の両方から政令が出ること)に出でざるを得ず、一切の事朝廷の御採決たらば論なけれども、そは甚だ難し、さりとて幕府にて決すれば朝廷を凌ぐとの非難起りて、天下遂に治まるべきの理なし。抑(そもそも)政令一途に出でざるべからずとは宿昔の定論なれば、かの建白と時勢切迫の機会とに、余が宿論を投ぜしなり。皇国此の如くならずしては決して治まり難しとの見込を立て、治否如何の大体を体認して処置に及びたるに、朝廷にても聞召され、大に本懐に叶へり、此上は会同の公議に附して、何とか治体を立てざるべからず、それは第一議事院の事にて、帯刀(注:薩摩藩小松帯刀)象二郎(注:土佐藩後藤象二郎)などもそれぞれ存寄あり、申し出づべしとの事なれば、篤と申談じ、ともかくも国是を決したき心算にて、当時は唯差当る事どもを、伺の上取計らひ居るまでなり」と述べたそうです。 *** 同日、越前藩の中根雪江(春嶽の懐刀)は永井尚志を訪ねました。その際、中根は会津の現況を尋ねました。 「是も当時の様子は承知いたさず候えども、その砌は、何分正大公明の御処置候へは、此上申上方もこれなきとの藩議」のようだと永井がいうので、 「(会津には)御三家親藩力を戮せ、今一度政権復古と申す目論見もこれあり様にも風説これあり候は如何」と質したところ、 「左様の義有りかは存じず候えども、今更左様の事と相成候ては、是迄の御処置、惟(ただ)御術計に落ち、決して相済み申さず」と答えたそうです。 参考:「丁卯日記」(適宜、読み下し、当用漢字に変えています。かな送りは自己流です^^;)。 ** 同日、御陵衛士の斎藤一が新選組に反復しました⇒こちら |
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