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幕末日誌
<慶応3(1867)年>

◆=京都守護職・幕末のできごと ◇=御陵衛士(新選組)のできごと
(「今日の幕末」過去ログの再整理なので西暦が先にきています)

慶応3(1867)年のできごと

慶応3年1月

◇慶応3年1月1日(1867.2.5)−新選組伊東・永倉・斎藤ら隊規違反で島原に流連?(疑問あり)
◇慶応3年1月7日(1867.2.8)−伊東・永倉・斎藤、隊規違反で謹慎?
◇慶応3年1月7日(1867.2.11)−新選組沖田・永倉・斎藤、四条橋で土佐浪士らと乱闘?
◇慶応3年1月10日(1867.2.14)−新選組田内知、士道不覚悟により切腹
◇慶応3年1月18日(1867.2.22)−伊東・新井、九州へ出発
◆慶応3年1月21日(1867.2.25)-孝明天皇大喪につき征長軍解兵

慶応3(1867)年のできごと

慶応3年2

◇1867年3月8日(慶応3年2月2日)−伊東、大宰府到着。真木らに会う
◆1867年3月14日(慶応3年2月12日)-会津侯、守護職辞任を書面提出

慶応3年3月年のできごと
◆慶応3年3月5日(1867.4.9)−幕府、兵庫開港の勅許申請(公議なし)
◇慶応3年3月7日(1867.4.11)−伊東甲子太郎・新井忠雄、大宰府から帰京へ
◇慶応3年3月10日(1867.4.14)−伊東ら、御陵衛士拝命
◇慶応3年3月12日(1867.4.16)−伊東・新井、京都に帰着
◇慶応3年3月13日(1867.4.17)−新選組、伊東らの御陵衛士分離を了承
◇慶応3年3月14日(1867.4.18)−伊東、御陵衛士の屯所を三条に周旋
◇慶応3年3月15日1867.4.19)−伊東、御陵衛士分離について町奉行・会津藩公用方と会談
◇慶応3年3月16日1867.4.20)−伊東、新選組近藤勇・土方歳三と酒をくみかわす
◇慶応3年3月17日(1867.4.21)−伊東、分離後の宿舎が決まらず途方にくれる
◇慶応3年3月20日(1867.4.24)−御陵衛士、新選組から分離して三条城安寺へ
◇慶応3年3月21日(1867.4.25)−御陵衛士、五条東善立寺に移転

慶応3(1867)年のできごと

慶応3年4

◆慶応3年4月8日(1867.5.11)−会津藩、容保帰国願いの上書提出
◆慶応3年4月12日(1867.5.15)−薩摩藩島津久光・西郷、率兵入京
◇慶応3年4月15日(1867.5.18) 新選組田中寅三切腹
◆慶応3年4月15日(1867.5.18)−パークス伏見街道通行を所司代許可。議秦・伝秦四卿の責任問題。
◆慶応3年4月17日(1867.5.20)−四卿解職、薩摩・因幡・備前に京都市中&伏見・大津警備の勅命
◆慶応3年4月18日(1867.5.21)−慶喜、定敬、板倉参内。三藩朝命取り消し。(議秦人事をめぐる幕府・雄藩の対立)
◇慶応3年4月19日(1867.5.22)−新選組山崎奨、中山忠能訪問
◆慶応3年4月23日(1867.526.)−いろは丸沈没。会津候松平容保、参議を拝受

慶応3(1867)年のできごと

慶応3年5


慶応3(1867)年のできごと

慶応3年6

◇慶応3年6月10日(1867.7.11)−新選組総員幕臣取りたての内示/新選組尊王派横死事件(1)尊王派、幕臣取立てに反発
◇慶応3年6月13日(1867.7.14)-新選組尊王派横死事件(2)幕臣取立て反発尊王派、会津侯への上書提出
◇慶応3年6月14日(1867.7.15)−新選組尊王派横死事件(3)尊王派会津藩邸で横死

慶応3(1867)年のできごと

慶応3年7月

◇慶応3年7月3日(1867.8.26) 伊東、中岡慎太郎と会う

慶応3(1867)年のできごと

慶応3年8

◇慶応3年8月8日(1867.9.5)御陵衛士、柳原前光・板倉伊賀守に建白
◇慶応3年8月21日(1867.9.18)、伊東・新井、大宰府で真木外記に会う

慶応3年9月
◇慶応3年9月20日(1867.10.17) 新選組近藤勇、永井尚志に土佐藩後藤象二郎を紹介される
◇慶応3年9月22日(1867.10.19) 近藤、後藤象二郎に再会を乞う書簡を送る
◇慶応3年9月26日(1867.10.23) 近藤、後藤象二郎に再会を乞う書簡を送る
◇慶応3年9月27日(1867.10.24) 近藤、岡山藩家老と長州処分に関する議論。後藤象二郎に再会を乞う書簡を送る

慶応3年10
◆慶応3年10月3日(1867.10.29)−後藤、老中板倉に大政奉還提出
◆慶応3年10月4日(1867.10.30)−後藤ら、会津藩と面会。大政奉還建白提出を通知。
◆慶応3年10月5日(1867.11.1)−大久保、中御門経之に「討幕続行」約束/近藤、大政奉還の写しをみせてくれるよう後藤に頼む。
◇慶応3年10月6日(1867.11.2) 陸援隊への新選組間者村山謙吉、新選組に誤認逮捕・釈放の擬装工作/大久保・品川、岩倉・中御門と会談(王政復古の詔勅と職制案)
◇慶応3年10月8日(1867.11.3) 新選組、永井尚志の警護につく。/大久保・西郷・小松、三藩会議。芸藩武力討幕に戻る。西郷・大久保、討幕の宣旨降下を請う趣意書を中山忠能・三条実愛・中御門にに提出
◇慶応3年10月9日(1867.11.4) 近藤、薩摩・十津川挙兵計画を会津藩に報告/長州出兵延期の使者上洛。坂本、入京。陸援隊屯所訪問。
◆慶応3年10月11日(1867.11.6)−薩摩、即時挙兵の見合わせ。(薩土盟約への回帰)
◆慶応3年10月12日(1867.11.7) 近藤ら、大政奉還は尾張・越前の陰謀と誹謗する
◆◇慶応3年10月13日(1867.11.8) 長州へ官位復旧の宣旨。新選組、中山忠能邸を監視するが失敗/慶喜、二条城に重臣召集。大政奉還の是非を諮問/討幕・会津&桑名討伐の密勅が薩摩藩へ。
◆◇慶応3年10月14日(1867.11.9) 倒幕の密勅が長州に−大政奉還の秦上。近藤、正親町三条実愛訪問。/この頃、新選組・見廻り組、土佐藩士をつけねらう
◆慶応3年10月15日(1867.11.10) 大政奉還の勅許(岩倉をのぞく倒幕派公卿は満足)
◆慶応3年10月16日(1867.11.11)-慶喜、沙汰の疑義を確認。諸大名に上京の勅命/岩倉、大久保に対して会津・桑名の薩土芸藩攻撃の動きを知らせる
◆慶応3年10月17日(1867.11.12)-慶喜、予備会議開設の建議/江戸城中の大評議/久光の率兵上洛を促すために小松・西郷・大久保、京を発つ/新選組、小松・西郷らを大坂まで後をつける
◆慶応3年10月18日(1867.11.13)-慶喜、徳川への委任権限8か条の伺。/岩倉具視、中岡慎太郎と薩摩藩邸を密訪し、吉井・伊佐治と会談/坂本、望月清平宛書簡。幕吏が狙っているので薩藩邸へと吉井にいわれたが断る。藩邸にはいりたいのでよろしくとの内容。 坂本、月真院を訪問
◇慶応3年10月19日(1867.11.14)-近藤、正親町三条実愛を再び訪問
◇慶応3年10月21日(1867.11.16)-土方、新入隊士ら30人とともに江戸を出立する/討幕密勅の中止の沙汰書が中山から薩摩藩吉井幸輔へ。/江戸の幕府、大名・旗本らに総登城を命じて大政奉還を伝える。
◆慶応3年10月22日(1867.11.17)-朝廷、伺に対して諸大名上京までは日常業務8か条は従来通りと返答/尾張慶勝、容保に守護職引退を勧告
◆慶応3年10月23日(1867.11.18)-紀州・会津・肥後・津始め10万石以上諸藩士会合して「両三藩」について紛議。
◆慶応3年10月24日(1867.11.19)-慶喜、将軍職辞表を提出。
◆慶応3年10月26日(1867.11.21)-外交・内政これまで通りの沙汰
◆慶応3年11月27日(1867.11.22)-尾張慶勝、率兵せず入京。
◆慶応3年10月30日(1867.11.25)?-慶喜、仏公使ロッシュに大政奉還を通告する直書を送る。

慶応3年11
◆慶応3年11月1日(1867.11.26)-容保、慶喜に進退伺い。
◆慶応3年11月3日(1867.11.28)-紀州藩、在府諸藩と協議。
◆慶応3年11月8日(1867.12.3):越前春嶽、率兵せず入京/岩倉具視に洛中居住の勅許/土佐福岡、越前藩訪問。会津の大政奉還不同意を語る。(大野英馬が中川宮訪問)
◇慶応3年11月9日(1867.12.4):新選組隊士後藤大助ら、伏見奉行所与力を殺害。/朝廷、「両三藩」の語を撤回/土佐福岡、越前藩訪問。慶喜の英断をほめる
◇慶応3年11月10日(1867.12.5):御陵衛士斎藤一、新選組に反復する/慶喜、二条城で春嶽に謁見。政権返還は本懐であると告げる/越藩中根雪江、永井尚志訪問。会津の現況をただす。
◆慶応3年11月11日(1867.12.6):尾張犬山藩家老、越前藩側用人に「邪魔」な会津藩は東帰させるべきと語る/彦根藩、大垣藩とともに在京譜代諸侯の代表として、大政奉還後も万事徳川家から執達があることを願う建白書を提出
◆◇慶応3年11月12日(1867.12.7):新選組の「暴論」を恐れ、越前・尾張藩の参内延期の沙汰という風聞
◆慶応3年11月14日(1867.12.9):会津藩が薩土芸討伐の企てありとの噂
◆慶応3年11月15日(1867.12.10):朝廷、慶喜に新政府組織案を諮問/永井尚志、「会津は専ら復権の主張と承り候」と危ぶむ。/会津藩公用人小野権之丞、幕権回復論を否定/坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺。新選組犯行説流れる/溜間詰庄内藩主酒井忠篤ら6名・菊之間詰大名ら20余名、上京の朝命辞退/大久保一蔵、入京
◆慶応3年11月16日(1867.12.11):陸援隊への間者村山謙吉捕縛。土佐福岡、越前邸で「(暗殺犯は)おそらく新撰組ならん」と語る/11or12日阿部十郎、薩摩藩邸に衛士の保護を求めるが断られる
◆慶応3年11月17日(1867.12.12):二条、慶喜・諸大名に太政官八省再興を諮問。慶喜、公議与論で決すべきと返答/中岡死亡
慶応3年11月18日(1867.12.13):油小路事件(1)伊東、近藤妾宅へ呼び出される/坂本・中岡の葬儀?/海援隊7人、新選組等の詮索が厳しく宿屋に断られ、土佐白川邸へ入る/薩藩西郷、長州三田尻で薩長土出兵の部署決定/
慶応3年11月18日(1867.12.13):油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される
◇慶応3年11月19日(1867.12.14):油小路事件(3)油小路の戦い
◆慶応3年11月19日(1867.12.14):油小路事件(4)伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に。油小路の手当て、及び葬儀両が新選組へ会津より下される/大久保、坂本暗殺は新選組に違いないとする手紙を岩倉へ出す/梅沢孫太郎
◆慶応3年11月20日(1867.12.15):春嶽、慶喜の政権奉還は真意であると納得して、尽力を誓う。/篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/新井の妻小静、篠原の妻萩野、伊東の妾が薩摩藩遠武橘次の屋敷に逃げ込む
◆◇慶応3年11月21日(1867.12.16):公議政体派・土佐藩後藤象二郎入京/篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流
◆慶応3年11月22日(1867.12.17):討幕派岩倉具視、中山忠能宛書簡に「慶喜は理があるが会桑の罪いかん」と記す/長州藩、藩内に出兵を令する
◆慶応3年11月23日(1867.12.18):薩摩藩主島津茂久、率兵入京(小松抜き)/慶勝、二条城で慶喜に対談。「疑念氷解」
◆◇慶応3年11月24日(1867.12.19):薩摩藩吉井幸輔、慶喜への疑念はないと発言。また、公議による王政復古を急ぐ必要性、伊東の暗殺についても。
◆慶応3年11月25日(1867.12.20):土佐藩後藤、越前の同意を得て朝廷工作へ。(正親町三条実愛に入説等)/長州兵、進発。
◆慶応3年11月26日(1867.12.21):近藤勇、若年寄格永井から取り調べをうける。甲子太郎斬手続き(正親町三条実愛)
◆慶応3年11月27日(1867.12.22):永井尚志、土藩後藤に慶喜の構想は「郡県制」と伝える/薩藩大久保、徳川の反正真実ときくが「紀会桑等の雑説もあれば」と疑念。
◆慶応3年11月28日(1867.12.23):会藩公用人手代木直右衛門、春嶽に大政奉還後の状況を否定/越前藩内、「尊王旗」を掲げて公議政体を進め、異論を討つとの議論。
◆慶応3年11月29日(1867.12.24):薩藩大久保、正親町三条実愛にクーデターを入説。長州、西宮上陸

慶応3年12
◆慶応3年12月1日(1867.12.26)−大久保、中山忠能を入説
◆慶応3年12月2日(1867.12.27)−大久保・西郷、後藤にクーデター計画伝える。長州兵上洛に関する二条城での会議。長州の上坂の朝命 (会津・中川宮の反対)
◆慶応3年12月3日(1867.12.28)−会津・藤堂藩の長州入京反対の入説に公卿、恐怖することを越前候松平春嶽に伝える
◆慶応3年12月4日(1867.12.29)−春嶽登城。会津の妄動鎮撫に策を練る。250
◆慶応3年12月5日(1867.12.30)−岩倉、後藤のクーデター延期要請を「会桑新撰」の動きを理由に拒否
◆慶応3年12月6日(1867.12.31)−岩倉、中山宛書簡「会桑之奸しきりに申し居」
◇慶応3年12月7日(1868.1.1)−天満屋事件
◆◇慶応3年12月8日(1868.1.2)−新選組近藤・土方、大阪の豪商に金策/長州藩主父子の官位復旧・七卿赦免
◆慶応3年12月9日(1868.1.3)王政復古の号令(摂政関白・幕府・守護職等の廃止)
◇慶応3年12月11日(1868.1.5)新選組、大阪の豪商に3000両返済
◆慶応3年12月12日(1868.1.6)−徳川慶喜、会津・桑名藩主を連れて京都退去/新選組、二条城警護へ
◆慶応3年12月13日(1868.1.7)−徳川慶喜、大坂城に入城−薩摩藩の軟化・新選組、二条城警護で水戸藩と対立
◆◇慶応3年12月14日(1868.1.8) 岩倉具視、慶喜の辞官問題に軟化/新選組、新遊撃隊御雇を拒否して下阪
◇慶応3年12月14日(1868.1.9)新選組、監察を伏見に先発させる
◆慶応3年12月16日(1868.1.10) 岩倉具視、慶喜の辞官納地に関してさらに譲歩/新選組、伏見入り − 衛士残党の間者を殺害
◆◇慶応3年12月17日(1868.1.11) 岩倉、慶喜の上洛を懇請・新選組を疎み、町人が伏見脱出
◆◇慶応3年12月18日(1868.1.12)永井尚志、慶喜上洛を促しに下坂
会・桑の帰国を促す沙汰が再度下る/慶喜のクーデター非難状が京都に届く/近藤勇・沖田総司、御陵衛士残党に襲撃される

◇慶応3年12月20日(1868.1.14)近藤勇・沖田総司、戦線を離脱して下阪
◆◇慶応3年12月21日(1868.1.15)徳川慶喜、早期上洛を了承/薩・長・芸・土に伏見巡邏の朝命/新選組、薩摩兵らと衝突/大久保利通、会津藩と新選組の軍事行動を非難する
◇慶応3年12月24日(1868.1.18)伏見新選組、土佐の後藤らと衝突
◆◇慶応3年12月25日(1868.1.19)庄内藩兵、江戸の薩摩屋敷を焼き討ち/この頃、尾張藩、新選組の伏見撤退を要求
◆◇慶応3年12月26日(1868.1.20)徳川慶喜に上京の朝命・新選組撤退が条件
◇慶応3年12月29日(1868.1.23)新選組、薩摩藩に間者を放つ

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