12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3 テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ
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慶応3年11月11日(1863年12月6日)、越前藩を訪ねた尾張犬山藩家老小池奥左衛門は、応接した側用人に、会藩は東帰させるべきだと述べたそうです。 小池がいうには・・・ 「先日、渋沢成一郎が尾張藩家老成瀬隼人正方を訪問し、(若年寄格)永井尚志の内旨を伝えた。御三家・親藩の兵力があれば政権を取り戻すことができる・・・というものだった。ご当家にはそのような説は聞こえているだろうか?」 越前藩側用人は 「今のところ聞いていないが、畢竟討幕論が盛んで時機が切迫しているときに政権を返したので議論が収まったというのに、今また政権を取り戻しては討幕論がまた起ることは必然である。」と答えたそうです。 小池はこれに答えて 「もっともである。私どももそのように考えているので、あのような説を唱えるのは理解できず、昨日の朝、永井殿にうかがったところ、そのような語気はなく、内府公(慶喜)の意思を奉戴するしかないとのことであった。」 小池はさらに、薩摩・土佐について疑念を表明しましたが、土佐の事情については越前藩側から説明し、疑いは氷解したそうです。そして、 「何分、こうなっては、会津藩が邪魔になるので、できるなら東帰させる手段を考えてほしい」と述べたそうです。 参考:「丁卯日記」 <ヒロ> 渋沢成一郎は豪農出身で一橋家家臣に取り立てられた人物(渋沢栄一の従兄です)。慶喜に重用され、奥祐筆格にまでなったが、政権返還には反対で、幕権維持のためにしきりに入説をした人物です。のちに彰義隊を創設しましましたが、天野と意見が合わず脱退。その後榎本武揚の「脱走軍」に加わって函館戦争を戦いました。 同日、彦根藩、大垣藩とともに在京譜代諸侯の代表として、大政奉還後も万事徳川家から執達があることを願う建白書を提出 |
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