12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3  テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ

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慶応3年11月18日(1867年12月13日)午後
油小路事件(1)近藤勇、伊東甲子太郎を妾宅に呼び出す

慶応3年11月18日(1867年12月13日)午後、新選組は、御陵衛士として隊を分離して政治活動を展開していた伊東甲子太郎を罠にかけて暗殺するために、国事の談合と称して、近藤勇の妾宅に呼び出しました。

■同時代史料
★新選組は御陵衛士を妬んでおり、衛士たちはなにかあるのではないかと心配していた。その妬みがいよいよ強くなったので、伊東は近藤を訪ねて、全体の始末を語り、不和では双方のためにならないと説得したところ、相手は納得したが、夕方になった。新選組の面々が出て来て和解の酒宴をした。(慶應4年2月28日付け津軽藩士書簡 『毛内良胤(有之助)青雲志録』より要約−『新選組研究最前線』に所収)

■同時代関係者による回想録・回想談・通史
★伊東が近藤らの殺害を計画しているというのを間者の斎藤からきいた近藤は殺害を決意。伊東が以前から申し込んでいた借金を口実に近藤妾宅に呼び出した。伊東は護衛を4名連れて現われた。(永倉新八 「浪士文久報国記事」より要約)

★18日に近藤から書面が来て会わなくてはいけないことになった。阿部が、近藤は奸智に長けていて危ないので行くなと止めたが聞きいれない。阿部の留守中に出かけてしまった。(阿部隆明談 『史談会速記録』90より要約)

★伊東以下衛士は「勤王の時事に尽力」したが、斉藤一は間者だった。斎藤は伊東の言動を日々報告した。伊東が日本全国皆兵でなければ外国と戦うことはできないとの建白書を出したこと、藤堂平助が美濃の博徒水野弥太郎と結んで農兵数百人を号令次第で差し出す約束を固めたことや、薩摩藩の大久保利通と機密を談じたことを聞いた近藤はもはや捨てがたいと会津藩に断じて、殺害を評決した。土方は月真院の後山から大砲を打ち下し、門前南北の街路に小銃を備えて夜襲をすることを主張したが、近藤は大騒ぎになるので謀殺する方がいいという意見だった。(衛士と親しかった西本願寺侍臣西村兼文「新撰組(壬生浪士)始末記」より要約。←西村は新選組や会津藩の機密事項に触れる立場にはおらず、これは風聞か、後付けの想像の可能性が大)

18日の午後、近藤が「密々の国事ノ談合」があるからと妾宅に伊東を招いた。人を疑うことのない伊東は快諾した。同志、特に服部三郎兵衛と篠原秦之進は、斎藤が準備金を奪って逃走したのは間者だったに違いなく、近藤・土方がどのような罠があるやもしれないと引き止めたが、伊東はこれを容れずに出かけた。(西村兼文「新撰組(壬生浪士)始末記」より要約。←衛士からの伝聞?)


■その他
★近藤が相談があるからと妾宅に伊東を招いた。同志の篠原・服部らは心配して止めるが、伊東は、<我らは勤王のために上洛したが、誤って新選組に入ったために嫌疑を受け、十分に力を尽くすことができず口惜しいばかりであった。しかし。今、志は成就しようとしている。彼らからの招きを機会として、彼らを説諭すべきである。彼らがこれを聴かずに自分に危害が加えられたときは、同志の力を合わせて朝廷に忠誠を尽くしてくれ>と言って出かけた。(『殉難録稿』40「伊東武明」より要約)

★間者・斎藤の報告を聞いた近藤は伊東殺害を決心。18日の朝に300両の借金を申し込んだ伊東に、金を渡すと偽って妾宅に呼び出すことにした。伊東は喜んで同志4名とともに来訪したという。(永倉の晩年の回想をもとにした読み物『新撰組顛末記』より要約)

★伊東は、<相手が好意を持って誘っているのに罠を心配して出かけないのは礼儀に外れるし、卑怯。万一自分に何かあったときは、同志の力を合わせて国事に尽くしてくれ>と言って出かけたという。(小野圭次郎 「伯父・伊東甲子太郎武明」より要約)


<ヒロ>

近藤暗殺計画に疑義

伊東らが近藤殺害を計画していたとするのは、永倉の記録だけですが、この説には非常に疑問があると思います。まず、他の新選組側資料による傍証がありません。また、そんな重要な事実があれば、近藤が「賊」である明治になって吹聴することこそあれ、隠す必要のまったくない衛士側の回想録・回想談にも一切みられません。ことに、旧衛士の阿部は史談会で、近藤暗殺を2度まではかった/はかろうとしたこと(禁門の変の前の暗殺計画及び油小路事件の復仇)を証言していますが、油小路事件直前の暗殺計画については何も語っていません。そのような暗殺計画が実在し、しかもそれが同志横死につながっていたとしたら、他の暗殺計画同様、いや何をおいても証言するのではないでしょうか。

また、この頃、伊東を含めて11名の同志のうち3名(新井忠雄、清原清、佐原太郎)が京都を不在にしていました。大計画を実行する時期としてふさわしいとはとても思えません。特に伊東の信頼厚く剣の達人でもあった新井忠雄の京都出立は11月16日。暗殺を直前に控えながら新井を東下させるのは不自然ではないでしょうか。また、緊迫しているはずの時期に、阿部と内海がのんきに泊りがけで鳥撃ちに出かけるのも不自然です。

そもそも、伊東が暗殺計画を立てながら近藤の妾宅に単身ででかけるのも不思議です。(なお、永倉関連の記録による伊東が同志・護衛を4名連れて現れたという記述にも、他の資料と食い違いがあり、管理人は信用していません。こちら)。暗殺という手段は、伊東の唱える一和同心の精神にももとりますし。幕権回復を主張する近藤が、伊東の説得に応じず、王政復古の動きを妨害して「朝敵」となるなら暗殺も辞さない・・・というのなら、まだわかるのですが・・・。そういう意味での暗殺の可能性は衛士らの方針の一つとして話題にのぼることはあったかもしれません。ただし、上で述べたように、それは具体的な計画ではなかったと思います。

斎藤一が伝えたとされる伊東らの近藤暗殺計画。もし、実在しなかったとしたら、なぜ永倉の記録に残ったのでしょうか・・・。

まずは、永倉の単純な記憶違いの可能性がありますが、「報国記事」の方は明治2年に書かれており、油小路事件からわずか数年のことになります。記憶違いというのは考えにくいのではないでしょうか。だとすると、どんな理由が考えられるでしょう?

明治になって「賊軍」となった永倉にとって、「勤王の志士」伊東らの暗殺は非常にまずい事件であり、正当化をすることは必要だったでしょう。そのための作り事なのかもしれません。あるいは、永倉はそう思い込んでいたのかもしれません・・・。その場合、反復した斎藤が虚偽の報告をしたのか、針小棒大に伝えたのか・・・。それとも、報告を受けた近藤らが過剰に反応したのか。あるいは、また伊東派殲滅をかねてから狙っていた近藤らが、もっともらしい理由をつけるため、斎藤の反復を利用して、隊内外に流したデマだったのかもしれません。

いずれにせよ、油小路事件に関する永倉の記録には、随所に同時代史料などとの齟齬のある点がみられます。傍証がない限り信用するのは危険だと思います。

■近藤が伊東暗殺を決意した理由:「天誅」としての伊東暗殺

もし、伊東による近藤暗殺計画がなかったとしたら、なぜ近藤らは伊東暗殺を決定したのでしょうか。史資料によれば、理由として、(1)伊東らへの「嫉み」(津軽藩士書簡)、または、(2)建白書提出(大政奉還後の新政府綱領32条で、一和同心・大開国大強国・国民皆兵を柱とし、公議による公卿中心の政権を構想したものです(こちら)。穏健なもので、討幕ではないのですが、大政奉還後の政治状況に不満で、王政復古には断固反対する近藤にとっては、噴飯ものなはず)、農兵集め、大久保利通との会談等、近藤にとっての不穏な動き(西村の『始末記』)が挙げられています(西村の説は、近藤に直接聞いたわけではないので、風聞あるいは後付の想像ですが)。わたしは、伊東暗殺の理由には、このような近藤個人の不快感に加えて、天誅効果を期待するという政治的意図もあったのではないかと推測しています。

当時、京都の政局は、大政奉還を受けて、新たな政治体制づくりを推進する勢力(大多数。ただし、種々の考え方が存在)と、大政奉還後の状況に強く不満を持ち、幕権回復をもくろむ少数の勢力(会津藩・新選組など)が対立していました。大政奉還後の体制づくりには何も武力倒幕派だけが関与していたわけではなく(なにしろ将軍が率先して大政奉還をしたわけですから)、親藩では越前藩や尾張藩が熱心でした。旗色の悪い新選組(近藤)はこの越前藩・尾張藩なども敵視しており、5日前の13日には、宮家におしかけて徳川慶勝や松平春嶽を朝廷で登用しないよう議論をしたばかりでした(こちら)。朝廷は慶勝・春嶽を登用すれば「又彼輩(注・近藤ら)切迫暴論を来し申すべきやとの恐怖よりして」、両名の参内の沙汰を延期すると内定したともいわれています(「丁卯日記」)。近藤らは、「恐怖」が朝廷に与える影響を実感したのではないでしょうか。ちょうど近藤らが上洛した文久3年前後に天誅が横行し、政局にインパクトを与えていたことも思い出されたかもしれません。また、元治元年3月、容保にかわって春嶽が一時、京都守護職に就任したとき、春嶽お預かりとなるのを拒む新選組が春嶽の暗殺を計画しているとの噂が流れたことがあります(こちら)。結局、新選組は従前どおり会津藩預かりとなり、容保も守護職に復帰したのですが、このときに感じた「成果」も記憶に残っていたかもしれません。

尾張藩・越前藩をも敵視する近藤(新選組)ですから、伊東の言動が許せないのは当然でしょう。大政奉還を喜び、王政復古を推進する伊東は公議政体派寄りであり、決して討幕論(=武力倒幕)を唱えてはいません。ですが、幕権回復派でないこと自体がけしからんことだったでしょうし、伊東の穏健な構想は、近藤にとっては、かえって慶勝・春嶽らと同じ穴のむじなに映ったかもしれません。さすがに、慶勝や春嶽を天誅することは、会津藩の理解も得られず、新選組の解体や死を覚悟せねばできませんし、物理的にも困難でしょうが、衛士を拝命した以外、後ろ盾のない伊東は違います。朝廷と関連の深い御陵の衛士の隊長であり、しかも穏健な王政復古を志向する伊東を暗殺することは、近藤個人にとって目障りな存在を消すというだけでなく、天誅効果、すなわち朝廷や穏健な王政復古推進派へ「次はもしかしたら」という恐怖を与え、行動を躊躇させうる効果もあると思ったのではないでしょうか。現に、朝廷では騒ぎになりました。新選組を切腹させようとの意見も出たそうですが、新選組に手が出せるはずもなく(表向きは土佐浪士のしわざにしていますし)、そのような沙汰は降りませんでした。

なお、「嫉み」についてですが、管理人が思いつくことに、王政開国や長州寛典を説く伊東の建白書は受理されたのに、長州処分を主張する近藤の建白書は門前払いを食らったことがあります。このことは、政治志向の強い近藤の気持ちを痛く刺激したかもしれません。

■近藤が伊東を呼び出した口実

近藤が伊東を呼び出した口実には国事の談合(西村説・殉難録説)説と借金(永倉説)の二通りあります。

(1)国事談合説
国事談合説には同時代史料による傍証があります。油光路事件の現場検証のとき、伊東の懐から大政奉還後の日本が取るべき綱領を記した長文の意見書(こちらとほぼ同文)と、薩摩・土佐・会津など主だった藩の方向性(王政攘夷か佐幕攘夷かという程度)を記した文書がみつかったそうで、複数の史料(『編年雑録』・『熊本藩記録』・『毛内青雲志録』にその内容が引用されています。伊東が、国事の談合をしにいったことは間違いないと思います。(実は、伊東の懐中に建白書があったことが書かれている新選組本には、ほとんどお目にかかったことがありません。非常に重要なことだと思うのに・・・不思議です)。

(2)借金説
一方の借金説は永倉関連の資料以外のみ。否定する根拠もありませんし、国事の談合をするついでに借金の話もあったのかもしれません。ただ、既述のように、御陵衛士に関する永倉関係の資料にはしばしば誤記(たまたま連続した記憶違い・思い違い、あるいは新選組正当化をはかるための虚偽)があり、傍証のない記述をうのみにするのは危険だと思っています。

坂本龍馬も暗殺され、同志もとめたのになぜ出掛けたか・・・それは津軽藩士の書簡や殉難録稿の伊東の言葉が語っているのではないでしょうか。一和同心を基本思想にしていた伊東は、一命をかけても新選組をなんとか説得したいと思っていたのでは・・・と思います。

■よくある誤解?
伊東が「まさか斬られることはあるまい」と笑って出掛けたという説があるようで、結構広まっているようです。それをもとに「伊東は傲慢だった。近藤らをバカにしていたのだろう」と罵倒するひとたちに何度も出会ったのですが・・・(だいたい、なぜ、それが「傲慢」「ばかにしている」になるのかも理解不能です^^;)。なぜ、ここにのっていないのか?隠しているわけじゃないですよ(笑)。当事者である衛士たちの遺談・回想録に、そのような記述がみあたらないだけなんです。どうも、子母沢寛の作品(新選組三部作)が出典のようです。これは、何度も書いていますように、あれは読み物であって史料ではないんですよ〜(><)。

*海外出帳中で仕事が山積していますので、ここまで。いずれ、きちんと整理して覚書にUPしたいです。

関連:慶応3年11月10日 斉藤一反復 
11月18日:油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される 11月19日:油小路事件(3)油小路の戦い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流/ 11月24日薩摩藩吉井幸輔、伊東の暗殺についてコメント。

■別館HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

【薩長】両藩主会見。薩長出兵協約(12/28日の京都挙兵)。西郷、薩長土出兵の部署決定
<参考>『史談会速記録』、『新選組史料集コンパクト版』、『大日本維新史料』
『新撰組顛末記』、『新選組戦場日記』(新人物往来社)収録・引用の史料
(2000.12.13、2003.12.13)

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