■将軍再上洛(6) ●将軍右大臣昇進の公表 文久4/元治元年1月22日(1864年2月29日)、将軍家茂が在京諸侯・有司を二条城に召還し、右大臣昇進を発表しました。 ●将軍、朝議参豫諸侯に協力を依頼 同夜、家茂は、昨21日の宸翰(こちら)で名前の挙がった朝議参豫5名のうち、松平春嶽・伊達宗城・島津久光を内殿に招き、宸翰を示して、特に依頼する気持ちを告げました。 ●幕府、宸翰公表の是非を参豫諸侯に相談 この日、幕府は、登城した大名にも宸翰を公表すべきかどうかを春嶽らに相談しました。春嶽は、明23日の参豫参内の折に自分たちが朝旨をうかがうのでその結果次第で決めてはどうかと助言し、幕府もこれを了承しました。同じ朝議参豫の伊達宗城は、この日の宸翰の公表中止の経緯について「一応殿下ヘ御伺之末可然、叡慮難奉心付今夜ハやみ候」と日記に記しています。 ●諸有司の有力諸侯への嫌疑 同日、春嶽は、後見職一橋慶喜(同じく朝議参豫)から、21日の宸翰中に将軍が協力すべき人材として、松平容保、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光の5諸侯(朝議参豫諸侯)の名が挙げられていることから、「幕府の諸有司は少しく嫌疑の念を起こし」ていることをひそかに伝えられたそうです。 参考:『徳川慶喜公伝』3(2001/2/28)、『続再夢紀事』ニp369-370、『伊達宗城在京日記』p315(2010/1/2) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝廷参豫会議」 【京】文久4/元治元年1月22日(1864年2月29日)、中川宮は越前藩の使者中根雪江に対し、今後は自分は今後は周旋はやめ、幕府の処置を傍観するつもりであり、慶喜・春嶽にも総裁職や老中のするに任せるべきだと伝えました。 参考:『続再夢紀事』ニp369-370(2009/4/2) ■長州東上(2) 【長】文久4/元治元年1月22日(1864年2月29日)、都落ちした激派公卿三条実美は、従士水野正名(元久留米藩士)・土方久元(元土佐藩士)、浪士真木和泉・宮部鼎蔵らを招き、ともに議論をしたそうです。 三条実美らに随従する諸藩士・浪士らは、京都で破約攘夷の論がほとんど顧みられなくなったことを嘆き、1月11日と21日、死をもって廟議の回復を図りたいと書面で願い出ていたそうで、この日の議論はそれを受けたもののようです。 参考:『維新史料綱要』五(2009/4/2) 関連:■テーマ別元治1 「長州藩の東上(進発論VS慎重論)」 |
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