2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久4/元治元年1月21日(1864年2月28日)
【京】家茂参内。公武一和、無謀の攘夷を排した国是決定、
参豫諸侯との協力の宸翰(内諭)が下る。
【京】長州藩士桂小五郎、久坂玄瑞及び奇兵隊士の上京不可の書を藩要路に出す

■将軍再上洛
【京】文久4/元治元年1月21日(1864年2月28日)、将軍家茂が在京諸侯を従えて参内し、小御所において、孝明天皇から、天皇と将軍の親睦による公武一和、無謀の攘夷を排した国是決定、参豫諸候との協力を命ずる宸翰(内諭)を受け取りました

『続再夢紀事』採録の宸翰(こちら)の内容は以下に要約するとおり。

(1)国内外の危機的状況は、「汝(家茂)の罪」ではなく、「朕が不徳」のせいである。

(2)汝は朕の赤子であり、朕は汝を子のごとく愛している。汝も朕を父のごとく親しめ(「汝は朕が赤子、朕汝を愛すること如子、汝朕を親むこと父の如くせよ」)。その親睦の厚い薄いは「天下挽回の成否」を左右する重大事である。

(3)汝は「征夷府の職掌」を尽して、天下人心の希望に答えよ。「醜夷の征服」は「国家の大事」だが、「無謀の征夷」は朕の「好」むところではない。(征夷のための)「策略を議して」、朕に奏上せよ。それに基づき、「一定不抜の国是を定」めよう。

(4)「中興の大業」をなすには人を得ることが必要だが、松平容保、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光らは「忠質純厚思慮宏遠」であり、「国家の枢機」を任せるに足る人物である。朕は彼らを子のごとく愛している。汝も彼らと親しみ、ともに計って「衰運を挽回」せよ。


その後、家茂は常御殿に招かれましたが、席上、天皇は次のように述べたそうです。

(<今日下付した書面にはいささか「廉々し」い事を記したが、「敢て督責」しようというのではない。今後、「専ら力を協」わせ、「国家の為を図」ろうとする趣意である。また、これまで長州が「暴論を唱」えたために、「止むを得」ず「存慮の外」の処置があり、幕府はそのために「心ならぬ次第」に及んだこともあったのではないだろうか。「誠に気の毒な」事である>。

なお、家茂は前日には、右大臣の宣下を受けており、勅賜の板輿で御所の車寄まで乗り通すことが許可されるなど、朝廷側の待遇が前年の文久3年の上洛時とは格段の差でした。(→「余話」「お気の毒さん」だった将軍家茂の初上洛

<ヒロ>
宸翰(内諭)は薩摩藩によって起草されたものでした。

去る1月7日、薩摩藩国父島津久光は、中川宮と前関白近衛忠熙に対して、将軍家茂の上洛の際には諸大名とともに将軍を玉座の前に召しだして、「至誠の綸言を以て諭告」し、さらに「宸翰を以て己の罪するの詔を下」すよう求める建白書を差出しました。同時に、宸翰草稿も提出しています(こちら)。家茂に下した宸翰も久光が提出した草稿(の草稿)(『玉里島津家史料』採録)とほぼ同文です。目だった違いといえば、実際に下された宸翰には、将軍が依頼すべき人物として容保、春嶽、容堂、久光の4名が挙げられていますが、島津家史料の草稿には久光の名が記されていません。さすがに遠慮したんでしょうか?

なお、攘夷については、文久3年11月に久光に下した密勅21条(こちら)にあるように、孝明天皇自身、「武備不充実」の「無理之戦争」は忌避して「安慮之攘夷」を求めていますし、公武一和についても同様です。薩摩藩にしてみれば、ある程度天皇の意向に沿った草稿だったといえると思います。

参考:『徳川慶喜公伝』3(2001/2/28)、『続再夢紀事』ニp366-368、『玉里島津家史料』三p111、『幕末政治と薩摩藩』(2010/1/1)

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「参豫会議」 「将軍への二度の宸翰

■長州藩東上1(進発論VS慎重論)
【京】文久4/元治元年1月21日(1864年2月28日)、長州藩士桂小五郎は、藩の要路に対して、久坂玄瑞及び奇兵隊士の上京を不可とする書を送りました。

参考:『維新史料綱要』五

関連:■テーマ別元治1 「長州藩の東上(進発論VS慎重論)」

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