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元治2年2月23日(1865年3月20日)
新選組副長山南敬介、切腹。

元治2年2月23日(1865年3月20日)、晴。新選組副長山南が切腹しました。介錯は沖田総司だったといわれます。また、沖田は山南を慕っていたので一太刀で首を落とすことができず、二太刀目で首を落としたとの伝聞もあります。

<ヒロ>
山南敬介は一般に、近藤・土方と対立し、新選組を脱走し、沖田に大津で捕縛されて屯所に連行され、局中法度により切腹して果てたとされています。新選組解説本でも小説でもドラマでもよくみかけるパターンですよね。でも、実は、これは史料的根拠はほとんどないに等しく、切腹の真相は謎のままです。なぜ謎なのか・・・新選組側同時代人による記録は、山南の死の理由、ときには死そのものについて不自然なほど口を閉ざしているからなのです。

脱走はあったとするには根拠が薄く、またつじつまのあわないことがあまりにも多いといのですが(覚書:山南敬介脱走説に疑義 )、では切腹はどうなのか。伊東甲子太郎の山南を悼む和歌、その他同時代人による回想・記録には切腹・割腹・自刃・自服とされており、切腹した・・あるいはそう伝聞されていたことは確かです。切腹の理由については、

★近藤は故あって山南を切腹させる。(小島為之助『両雄士伝』)


★山南は西本願寺移転をめぐって近藤・土方と激しく対立。近藤が副長である自分の意見を容れないのは*「土方の奸媚」*に惑わされているからだと悲憤慷慨。一書を残して諌止の自刃をする。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』)

★山南は近藤と議論をし、自服 (悟庵「鬼録」)


が伝えられています。近藤となんらかの対立があり、それが理由だったようです。切腹させられたのか、自ら切腹したのか、そのへんはよくわかっていません。伊東が山南の死後に詠んだ歌からは、近藤との対立が不名誉なものでないことは読み取れると思います。(関連:弔歌から読む山南の切腹

★伊東は山南「割腹」を弔う和歌を4首も詠んでいる。
*「山南氏の割腹を弔て
春風に吹きさそわれて山桜散りてそ人におしまるるかな
吹風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし
皇のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは
あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖をしほれは」*

(鈴木家蔵「残しおく言の葉草」より)

ちなみに、山南と近藤との対立に、近藤による土方の重用・・・という人間関係のもつれがあったことが壬生浪士始末記に記されていますが、これは、脱走説をとる『顛末記』にも挙げられています。

★山南は、幕府の爪牙となった近藤・土方と対立。近藤も一方の副長である土方のみと事を決し、山南を疎んじる。山南は新規加入した伊東に敬服し、後日を期した黙契ができる。近藤がさらに猜疑の目をむけるのでついに隊を脱走。これを口実に処断できると喜んだ近藤は沖田を追手に向ける。山南は大津で捕縛されて連れ戻され、隊規違反をもって切腹させられるという。
(『新撰組顛末記』)


関連:「元治2年2月22日(1865.3.19)-新選組副長山南、一説に脱走」「山南敬介の事件簿元治2年
覚書」「山南敬介(3):脱走説に疑義 」 「山南敬介(4)新資料?「山南三郎・・・与隊長某議論自服」

<参考>『新撰組顛末記』、『新選組覚書』、『新選組資料集コンパクト版』(新人物往来社)、『新選組戦場日記』(PHP)、『幕末維新京都町人日記』(清文堂)、「鬼録」


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