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元治元年3月3日(1864年4月8日)
【京】前尾張藩主徳川慶勝、参豫辞退
【京】新選組、再び会津藩指揮下にとの幕命

☆京都のお天気:晴天(久光の日記より)
【京】元治元年3月3日、前尾張藩主徳川慶勝(会津藩主松平容保兄)は、朝廷参豫を命じられましたが、これを辞退しました

「資性暗劣」で「多病にして気力衰弱」しており、大政に参与して、公武一和を乱すようなことになってはいけない・・・というのが表向き辞退の理由でしたが、『徳川慶喜公伝』では、「公(慶喜のこと)と事を共にするを好まざりしなるべし」との推測を記しています。

参考:『徳川慶喜公伝』三(2002.4.8)

(↓2010/4/21 管理人注:8年前の文章で、政局とはあまり関係ないのですが、御陵衛士を考える上で必要なので残しておきます。出張から帰国後、書き直しますので飛ばし読みしてください)

【京】同日、新選組を再び会津藩(軍事総裁職)指揮下にとの幕命が下りました

<ヒロ>
会津候松平容保の陸軍総裁職転出(のち軍事総裁職に)にともない、前越前藩主松平春嶽が京都守護職に就任しました。幕府は、引き続き新選組を守護職配下に置こうとしましたが、文久3年春に早々に帰国した等の理由から春嶽を忌む新選組はこれを不服とし、会津候お預りを願う上書を幕府に提出していました。この日、幕府(所司代)は新選組の願いを許したことを容保に通知しました。容保には事前の相談がなく、事後承諾を得るというかたちでした・・・。

幕府はなぜ新選組の願いを聞き届けたのでしょうか。実は、新選組は春嶽お預りになったりすれば、春嶽を天誅しようと評議していたとの噂も流れていました(そこへ、再び会津候お預りになったので大喜びしたそうですが・・・)。あくまでも風説ですし、本気で春嶽の天誅を考えていたかどうかはともかく、そのようなことをしかねない集団だと見られてはいたのでしょう。春嶽の方からも、そのような新選組を忌避したのかもしれません。

さらに、なぜ、容保に事前に相談がなかったのでしょうか。容保は即承諾したのでしょうか。明確な記録はみあたらないのですが・・・。

また、なぜ、新選組はそこまで(天誅の噂が流れるほど)春嶽の配下を嫌がり、容保の配下を望んだのか・・・。このへんも含めて、「会津藩と新選組」テーマでいろいろ検証していきたいと思っています。

参考:『会津藩庁記録』(2002.4.8)

■その他の出来事
【京】伊達宗城、中川宮内談(『伊達宗城在京日記』p363-364)

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