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☆京都のお天気:雨(久光の日記より) ■朝廷参豫会議/長州処分(慶喜、容保、久光欠席) ●長使入京問題 【京】元治元年3月4日夜、朝廷参豫会議が召集され、長州藩の末家・家老らの入京可否について下問がありました。評議の結果は、長州が入京しても禁門の政変以前のような状態にならないよう、幕府が「保証」しなければ入京は不可であり、幕府の返答次第で可否を決めようというものでした。 さらに、明5日に将軍参内が予定されているので、それまでに幕府が返答するよう伝えよとの指示がありました(実際は、将軍参内は7日に延期)。 なお、容保・久光に加えて、この日は慶喜も欠席したため(後述)、参豫の参加は春嶽・宗城のみでした。 <ヒロ> 要するに、問題は、長州が入京して禁門の政変以前のような状態になったらどうするのか、ということでした。参豫側は、これまで、朝議が動揺しないなら入京を許可してもよい(実際は動揺するだろうから入京は不可)という意見をこれまで述べてきました。この日の議論の詳細は探せなかったのですが、これまでの参豫の主張と違う結論になったのは、朝廷側の意向が大きかったのではと思います。要するに、朝廷側は、長州が入京しても朝議が動揺しないと断言できず、かといって、大坂召命という天皇の裁断があったにも関らず長州シンパを慮って入京不可の判断を下すこともできず、責任をとらなくてもいいように自分の意見を曖昧にしたまま、幕府に球を投げる結果になった気がします。まさに優柔不断・・・。(伊東は公卿の実態を知らなかったから、公議・衆議による公卿中心の政権なんて構想できたのかも・・・)。 2/24、3/2の朝議は参豫だけでなく在京有力諸侯も招集されていましたが、今回は参豫だけが召集されました。諸侯には長州シンパが多かったからでしょうか・・・。 ○慶喜の不参 この日、慶喜は参内しませんでした。『伊達宗城在京日記』や『続再夢紀事』によれば、ちょっとした騒ぎになったようです。 『伊達宗城在京日記』によれば、時刻になっても慶喜が参内しないので春嶽が使者に尋ねさせたところ、「不快」で参内しがたく、一昨日の件なら大蔵へ宜しく頼む旨の返答でした。「如何にも」朝廷に対して「不敬之義」と「甚一同大不平」となり、宗城は伝奏にこのことを知らせるよう、春嶽に促しました(伝奏から慶喜に参内を促させるためだと思います)。春嶽が即飛鳥井に話したところ、程なく慶喜から春嶽へ自筆の書状がきて、<今朝「水潟」になり、二条城へは押して登城したが、その後も同様で手当てをしたが治らず、今まで様子をみていたが、この通りなので参内しがたくお断りするよう頼む>と伝えてきたため、伝奏に書状を示したそうです(参内の督促の取りやめのためだと思います)。 『続再夢紀事』も似たような内容ですが、参集の時刻になっても参内しないため、春嶽が使者に馬を走らせて理由を尋ねさせると、応対した黒川嘉兵衛が、慶喜は本日は登城はされたが参内は致さないと告げたそうでで、使者が御所に戻って黒川の話を復命していると、慶喜からも書状にて、今日は「不快」で参内しがたいので、(2日に議論した件は)「然るべく取計ひ給わる様に」と伝えてきたといいます。春嶽は御所を退出後、慶喜を訪ねましたが、「既に入寝」とのことで会えませんでした。そこで黒川に議事の趣旨、及び慶喜の「不参」は「頗不恭の筋にて満朝物議」を醸し、「宮を御始め御不満足」だった旨を伝えるよう言い置いて去りました。 ○宗城の失望 久光・宗城は、2月29日、朝廷の優柔不断さに失望し、それぞれの日記に嘆きの言葉を記しています(こちら)。久光は、3月2日以降、痛むところがあるとの理由で参内しませんでしたが宗城は、朝議に出て積極的に意見を述べました。しかし、議論がまとまらず、「此席にては申上候事ももはやなく候故、多分沈黙いねむりいねむり出候」ばかりで、「長大息を極候事」でした。この日の朝議についても、宗城は、翌5日の日記において「朝廷よりハ幕へ受合かとなり、幕にてハ朝廷にて御動き無之かと申上候。実に長大息の至、泣血の事候」と記しています。 ○長使(末家・家老)入京問題おさらいbyヒロ 長州・七卿処分については、2月8日に、幕閣・参豫諸侯・朝廷の主だった者との協議を経て、(長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、三条実美らの京都還送、違背すれば征討を決定、の3点が決まり(こちら)、11日には、征長部署の決定・関連諸藩への内達がありました(こちら)。さらに、2月24日の朝議(朝廷参豫会議)での結論(こちら)を受けて、25日には朝廷から長州藩末家・家老の大坂召命が出されていました(こちら)。 ところが、2月28日に筑前福岡藩世子黒田慶賛から、朝廷の沙汰による召喚なら長使を入京させるべきとの建議がありました(こちら)。大坂までときけば、長州藩が憤激し、悔悟が覚束なくなるだろうという理由でした。(←長州藩の入説があったそうです)。この建議を受けて朝義が動揺したため、大坂召命の沙汰を撤回して長使を入京させるかどうかという手続き問題が、大きな政治的議題になりました。 朝廷は、長使入京の可否について、参豫諸侯に内々に下問しますが、24日の会議に参加していた春嶽・宗城・久光(+容保)は、長使入京には反対でした。大人数を率いての入京になれば朝議が動揺し、禁門の政変以前の形勢に戻る恐れがあるとみていたからです。しかし、久光らの入京不可の内答を聞いても朝廷は決断できず、29日、大坂召喚の沙汰を一時見合わせた上で、改めて朝議を開いて「衆議」をきくことを決めました(こちら)。久光・宗城は、朝廷の優柔不断さに失望し、それぞれ、29日の日記に嘆きの言葉を記しています。3月2日には参豫が召集されて朝議が開かれましたが、久光は病を理由に欠席しました。朝議では、宗城が久光と申し合わせた入京不可論を述べましたが、慶喜が、召喚場所を決める前に「寛猛」の処置を決めるべきだと主張して意見が分かれました。孝明天皇の裁断は大坂召命でしたが、その後も議論は「粉々」とし、決定にいたらず(3/2)、この日(3月4日)の朝議となっていました。ところが、この日も入京可否の結論は出ず、長州が入京しても禁門の政変以前のような状態にならないよう、幕府が「保証」しなければ入京は不可であり、幕府の返答次第で可否を決めようということになったのでした。 参考:これまでの朝廷参豫会議の概容
参考:『伊達宗城在京日記』p359-363、『続再夢紀事』三p5-6、『徳川慶喜公伝』三p11(2002/4/8、2010/4/21) 関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■その他の出来事 【京】宗城、近衛家訪問(『伊達宗城在京日記』p366) 【京】会津藩祖・保科正之に従三位追贈(『維新史料綱要』五) |
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