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☆京都のお天気:陰(久光の日記より) ■朝廷参豫会議/長州処分 ●長使入京問題 【京】元治元年3月2日、朝廷参豫会議が召集され、長州藩の末家・家老の召喚手続き(入京問題)に関して下問がありました。入京不可論の宗城・春嶽に対し、慶喜は、召喚場所を決める前に「寛猛」の処置を決めるべきだと主張して意見が分かれました。孝明天皇の裁断は大坂召命でしたが、その後も議論は「紛々」とし、結論にいたりませんでした。 <長使(末家・家老)入京問題おさらいbyヒロ> 長州・七卿処分については、2月8日に、幕閣・参豫諸侯・朝廷の主だった者との協議を経て、(長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、三条実美らの京都還送、違背すれば征討を決定、の3点が決まり(こちら)、11日には、征長部署の決定・関連諸藩への内達がありました(こちら)。さらに、2月24日の朝議(朝廷参豫会議)での結論(こちら)を受けて、25日には朝廷から長州藩末家・家老の大坂召命が出されていました(こちら)。 ところが、2月28日に筑前福岡藩世子黒田慶賛から、朝廷の沙汰による召喚なら長使を入京させるべきとの建議がありました(こちら)。大坂までときけば、長州藩が憤激し、悔悟が覚束なくなるだろうという理由でした。(←長州藩の入説があったそうです)。この建議を受けて朝義が動揺したため、大坂召命の沙汰を撤回して長使を入京させるかどうかという手続き問題が、大きな政治的議題になりました。 朝廷は、長使入京の可否について、参豫諸侯に内々に下問しますが、24日の会議に参加していた春嶽・宗城・久光(+容保)は、長使入京には反対でした。大人数を率いての入京になれば朝議が動揺し、禁門の政変以前の形勢に戻る可能性があるとみていたからです。しかし、久光らの入京不可の内答を聞いても朝廷は決断できず、29日、大坂召喚の沙汰を一時見合わせた上で、改めて朝議を開いて「衆議」をきくことを決めました(こちら)。 <この日の動き> 朝議は小御所で行われ、朝廷からは、中川宮・山階宮・二条関白・徳大寺右大臣、、朝議参豫の慶喜(後見職)・春嶽(守護職)・宗城が出席しました(容保・久光欠席)。前回(2月24日)に引続き、その他の有力在京諸侯-、池田茂政(備前藩主)、蜂須賀斉裕(阿波藩主)、藤堂高潔(津藩世子)、黒田慶賛(筑前藩世子)、及び長岡護久・良之助兄弟(肥後藩主弟)の6名-も出席しました。 『伊達宗城在京日記』によれば、この日は下問に対して、まず宗城が、欠席の久光と事前に申し合わせた入京反対論を述べました。しかし、これに対して、慶喜が、京都か大阪かを決めるためには、まず長州が悔悟したら「寛猛」どちらの処置をとるかを決めるべきだと「意外の説」を主張したことで、参豫の意見はまとまりませんでした(注1)。 二条関白が天皇の裁断を仰ぐこととなり、一同、いったん退出しました。孝明天皇の意見は大坂召命(「大阪迄出候方可能然」)というものでした。 二条関白が、参豫3名を呼び出して、天皇の意見を伝えたところ、慶喜は、自分は「京摂両方何とも可然」とは申しておらず、「寛猛」を決めてほしいと申し上げたのだが、宸断の御沙汰なので「奉畏」と言ったそうです。 その後、一同が参集しましたが、入京の是非や「寛猛之事」に関して「議論紛々」となって結論が出ず、各自が意見書を提出することになりました。 (注1)宗城と慶喜の意見はこんな感じ↓(『伊達宗城在京日記』)
<ヒロ> 「剛公」こと慶喜が剛情ぶりを見せたようです・・・・。朝廷側は、天皇の裁断があったので、大坂召命で行くつもりだったらしいのですが・・・。 ○久光・宗城の失望 久光・宗城は、2月29日、朝廷の優柔不断さに失望し、それぞれの日記に嘆きの言葉を記しています(こちら)。久光は、この日、「痛所」があるとの理由で参内しませんでしたが、佐々木克氏は「本心は朝議と幕府にたいする失望が大きかったからであって、もはや朝議に期待するところがなくなったからであった」としています(『幕末政治と薩摩藩』)。宗城は、この日は朝議に出て積極的に意見を述べましたが、一同が再び参集した後の朝議につて、「此席にては申上候事ももはやなく候故、多分沈黙いねむりいねむり出候」ばかりで、「長大息を極候事」だったと日記に記しています。また、翌朝、宗城から朝議が「例ノ紛々ニテ遂ニ不一決」だったことを聞いた久光も、「歎息々々」と日記に記しています。 参考:これまでの朝廷参豫会議の概容
参考:『伊達宗城在京日記』p359-363、『玉里島津家史料』ニp754、『徳川慶喜公伝』三p11(2002/4/8、2010/4/21) 関連■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」「長州・七卿処分問題(元治1)」 (↓管理人注:8年前の文章で、史料が孫引きになっています。『鹿児島県史料・忠義公史料』は入手していますので、時間のあるとき、更新します)。 【京】元治元年3月2日(1864年4月7日)、寺町三条升屋喜右衛門の表戸に、将軍、及び中川宮・島津久光・松平春嶽を批判する張り紙がされました。 「今般、大樹公御上洛遊ばされ候については、外夷はもちろん、格別の御政立あらせられるべしと、天下の人心恐賀まかりあり候ところ、今もって御英断の御趣意も天下へ触示なされず、とかく世上混乱の風説のみ承り候ところ、中川宮様、島津三郎殿(注:島津久光)、松平大蔵太輔殿(注:松平春嶽)、右三人と仝意(注:同意)にて、奇怪の企ても致され候や、またまた人心囂然(注:かますびしい様子)として惑乱致し候上は、大害を引き出候やも計り難く、ことさら当正月中島津三郎殿中川宮様をもって、恐れ多くも皇朝調伏の祈祷致しかけ候始末柄等、なおこの上如何様の陰謀醸し候やも計り難く、右等の徒早々御処置あらせられたく、この段天下の御役方へ知らせ、ここに認め置くものなり。 三月 皇国鋭民」(『鹿児島県史料・忠義公史料』−『新選組日誌』収録の該当部分−読み下し&注釈byヒロ←専門家ではないのでくれぐれも引用しないでくださいね^^;) <ヒロ> 升屋喜右衛門は枡屋喜右衛門と同名であることから、寺町三条が間違いで、四条小橋北の枡屋喜右衛門、つまり、池田屋事件の発端となった古高俊太郎のことではないかと考えられています。『明治維新人名辞典』によれば、古高は近江出身で、梅田雲浜の門に出入りし、勤王志士と交わりました。文久以来、四条小橋北に商人を装って住んでいました。池田屋事件まで約3ヶ月ですが、密かに志士活動を行っている古高の家の表戸にわざわざ反体制の張り紙がなされた意図は何だったのでしょうか・・・。 (2002/4/8) ■その他の出来事 【京】越前藩士中根、大目付永井尚志に政体一新を説くが容れられず(『続再夢紀事』三p3) 【京】朝廷参豫会議前に宗城、中川宮訪問(『伊達宗城在京日記』p359) 【長州】東久世・壬生、三条を訪問して浪士等上京について議す(『維新史料綱要』五 |
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