4月トップ 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

 ◆3/5へ  ◆3/7へ


元治元年3月6日(1864年4月11日)
【京】参豫解体:島津久光、中川宮・近衛前関白に小松帯刀を遣わし、
「腰・脚痛」のための参豫辞退・帰国を内請
【江】幕府、在府諸侯・有司代表に横浜鎖港に関する勅旨・将軍請書を示す。


☆京都のお天気:晴天又少々冷気(久光の日記より)

■参豫会議解体
●久光の帰国

【京】元治元年3月6日、島津久光は家老小松帯刀を中川宮・近衛忠熙前関白に遣わし、「腰・脚痛」のための参豫辞退・帰国を内願し、官位返上の草稿を差し出ました

中川宮・近衛前関白は「驚駭」して久光を近衛邸に呼び出しました。行ってみると中川宮・近衛前関白父子が列座しており、「種々論判」して久光に「是非今暫滞京」するよう求めました。しかし、久光が長く滞京しては「疲弊」や「故障」があると申し立てると、遂に中川宮らは4月中か5月中旬までは帰国を見合わせるようにと妥協し、久光もこれを了承しました。

同日の日記には、久光の本心が次のように記されています。
「内実」は、「痛所モ勿論」だが、「公武共御因循無極」で「迚も十分ノ事も」整えられ難い御模様であり、ただ「無益ニ滞留イタシ候而ハ疲弊相重り、従来ノ尽力も」出来難いのは「必定」なので、先ず今回は「引取候方可然」。また「御暇申出」れば、「堂上之処又御模様モ」替えられるのではないかとの「内評」もあるので、このように申し出た。
(↑管理人は素人なので、絶対に資料として使わないでね)

参考:『玉里島津家史料』ニp755、『伊達宗城在京日記』p359-363、『続再夢紀事』三p5-6、『徳川慶喜公伝』三p11(2002/4/8、2010/4/24)
関連■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「参豫会議解体:参豫(久光)VS慶喜/幕府

■その他の出来事
【京】大久保一蔵(利通)、宗城訪問(『伊達宗城在京日記』p366)
【京】春嶽、登城(『続再夢紀事』三)
【江】幕府、在府諸侯・有司代表に横浜鎖港に関する勅諚及び将軍の請書を示す

 ◆3/5へ  ◆3/7へ

4月トップ 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ