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元治元年3月5日(1864年4月10日)
【京】長使入京問題:幕府、長使入京不可議定。
朝議、長州藩末家大坂召喚を決定(春嶽のみ参加)。長州藩に通達
【京】二条関白・将軍家茂、病床の容保に使者を派遣。容保死去の風説あり


☆京都のお天気:朝雨晩陰(久光の日記より)
■長州処分:長使入京問題
●幕議
【京】元治元年3月5日、幕府は、前日の朝議の結果を受けて、長州藩の末家・家老の入京可否について協議し、入京不可を議定しました。

その理由は、「長士入京の上、万一暴行に及」んだときには、幕府は「取鎮めむるのみ」ならどのようにも対処するが、「堂上方へ入説して公武の間を離間し、或は公卿方を恐嚇して其思想を扇動する」ような事になれば幕府には対応しがたい、それで、朝廷が「さる事は必あらせし」と確約するのであれば入京を許可してもいいが、この「御定見は朝廷にても容易く立られ難」いだろうから、矢張り入京は不可とすべきである、というものでした。

なお、慶喜は前日からの「腹瀉」で登城せず(注1)、2/16に御用部屋入りした宗城・久光は召集されなかったため(注2)、参豫からは春嶽だけが参加した評議となりました。会議終了後、春嶽・総裁職松平直克・老中一同が慶喜に会いに行き、さらに話し合いがありましたが、最終的には、前議の通りで決定し、総裁職・老中が参内して決議の内容を言上することになりました。(『続再夢紀事』)

●朝廷参豫会議(春嶽のみ出席)
【京】元治元年3月5日、朝廷は、幕府の返答を受けて、前の沙汰通りの長州藩の末家・家老の大坂召命(入京不可)を決定し、長州藩に通達しました。

参内した春嶽は、予め中川宮に幕議の赴きを言上し、総裁職・老中からも二条関白らへ言上したところ、「至極尤もの次第なり」ということで、朝議も大坂召喚で決まりました。(『続再夢紀事』)

●朝廷参豫会議の終焉
この日の朝議には、慶喜・容保・久光に加えて、宗城も出席せず(注3)、参豫は春嶽1名のみとなりました。この日を最後に、参豫が朝議に召集されることはありませんでした。

(注1) 慶喜の朝議不参2日め:前日は、慶喜が召集されながら、事前の連絡もなく参内しなかったため、「不敬」「不恭」と顰蹙を買っていました。春嶽は、そのために長使入京の件も決定できなかったとも考えており、もし、慶喜が今日も参内しなければ、「大に朝廷に信を失」い、「終には公武の御一和をも破」る事態に至ると憂慮していました。そこで、早朝に慶喜の家臣の平岡円四郎・黒川嘉兵衛を呼び出したところ、平岡が来邸し、(1)慶喜の体調は依然快復しないこと、(2)長使入京の件については、慶喜は筑前藩世子の建議に賛成して入京可の意見だが、春嶽・容保を始め参豫一同が入京不可というならば「衆議に従」うこと、(3)昨日不参の連絡が遅くなったのは、二条城で春嶽に「依頼」したので差し支えないだろうとの心得だったが、深く恐れ入っており、今日は予め不参とその経緯を既に御所へ言上し、また春嶽への連絡のため平岡が出邸するところへ、召喚の使いがきたこと、を述べました。春嶽は、<昨日は登城しなかったので、「依頼」の件は間違いだろうが、とにかく、昨日のような不参は「朝廷幕府に対して不敬なる事」は言うまでもない。以前から「京師の事は自ら其衛に当りて負担すべし」と言っておられる「御誠意に似」つかわしくない上、「申すへき様もなき御不都合」なので、以後同じことがないよう厳しく申し上げるべきである。また、長使入京の件は、この後登城して評議をするが、一橋殿からも別に閣老に申し出るように>と言ったところ、平岡は畏まって退出したそうです。(『続再夢紀事』)
(注2) 久光は痛みを理由にして3月2日、4日の朝議に出席しておらず、この日も欠席でした。宗城も、この日の朝議への不参を届け出ていました(注3参照)。朝議に出席せず、幕議にだけ出席することは「不敬」でありえないので、召集がかからなかったのでしょうか。
(注3) 宗城の朝議不参:宗城の日記によれば、「少々眩暈」気味の上、慶喜が不参で「弥(いよいよ)つまらぬ故」参内を断ったそうです。春嶽からは、外国艦長州襲撃の一件もあるので参内の上相談したいと言ってきましたが、既に朝廷に断ったものを「私」の理由で行くことは難しいと返事をしました。

長使入京問題をめぐっては、宗城は、2月29日、朝議が動揺していることに「失機会歎息」しており(こちら)、3月2日の朝議(久光・容保出席)では議論がまとまらないため「多分沈黙いねむりいねむり出候」ばかりという状況に「長大息を極」めていました。4日の朝議(慶喜欠席)についても、「朝廷よりハ幕へ受合かとなり、幕にてハ朝廷にて御動き無之かと申上候」と、朝幕がボールを投げあうばかりで一向に結論がでないことに、「実に長大息の至、泣血の事候」と嘆いています(『伊達宗城在京日記』)。しかも、久光が抜け、慶喜も抜けていく。そんなことが重なって、朝議に期待できなくなり、参豫として参加することへの意義も感じられなくなり、モーチベーションが低下したのだと思います。

○長使(末家・家老)入京問題おさらいbyヒロ◆3/4

参考:これまでの朝廷参豫会議の概容(最終版)
日付 慶喜 春嶽 容保 宗城 容堂 久光 主な議題
1 1/5 × 書付の下問のみ
2 1/8 × × 久光官位問題の下問(実質的1回目)
3 1/11 × × 将軍参内日程、久光官位問題の下問
4 1/13 × × 11日の下問の回答(新たな議題なし)。
5 1/17 × × 将軍参内手続き、公武一和の方針
6 1/23 × × 朝議なし
(宸翰公表是非に関する質疑応答あり)
7 2/13 × × 御前会議:長州処分の方針の確認
8 2/15 × × <御前会議>
横浜鎖港:朝廷、請書の文言に疑念を呈し、急速な横浜鎖港を命じる。慶喜と開国説の春嶽・宗城・久光の意見対立
9 2/24 × × 長州処分手続:末家・家老召喚手続
*他の在京諸侯5名(津藩主、筑前藩・芸州藩世子、肥後藩主弟)も参加
10 3/2 × - × 長州処分手続:末家・家老入京問題(1)
*他の在京諸侯6名(備前・阿波藩主、津藩・筑前藩世子、肥後藩主弟)も参加・
11 3/4 × - × 長州処分手続:末家・家老入京問題(2)
12 3/5 × × - × 長州処分手続:末家・家老入京問題(3)

参考:『伊達宗城在京日記』p359-363、『続再夢紀事』三p7-9、(2010/4/21)
関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議「長州・七卿処分問題(元治1)」

■その他の出来事
【京】将軍参内は7日に延期(『伊達宗城在京日記』p366−369)
【京】春嶽、宗城訪問(『伊達宗城在京日記』p366-369)
【京】二条関白病床の容保に典薬を派遣。将軍家茂、近侍と侍医を派遣。この頃、容保死去の巷説あり(『維新史料綱要』五p160)
【京】新選組、近藤・土方・沖田・藤堂ら酒宴
【江】仏国全権大使ドゥ・ベルクール、後任レオン・ロッシュを幕府に紹介(『維新史料綱要』五)

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