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☆京都のお天気:朝雨晩陰(久光の日記より) ■長州処分:長使入京問題 ●幕議 【京】元治元年3月5日、幕府は、前日の朝議の結果を受けて、長州藩の末家・家老の入京可否について協議し、入京不可を議定しました。 その理由は、「長士入京の上、万一暴行に及」んだときには、幕府は「取鎮めむるのみ」ならどのようにも対処するが、「堂上方へ入説して公武の間を離間し、或は公卿方を恐嚇して其思想を扇動する」ような事になれば幕府には対応しがたい、それで、朝廷が「さる事は必あらせし」と確約するのであれば入京を許可してもいいが、この「御定見は朝廷にても容易く立られ難」いだろうから、矢張り入京は不可とすべきである、というものでした。 なお、慶喜は前日からの「腹瀉」で登城せず(注1)、2/16に御用部屋入りした宗城・久光は召集されなかったため(注2)、参豫からは春嶽だけが参加した評議となりました。会議終了後、春嶽・総裁職松平直克・老中一同が慶喜に会いに行き、さらに話し合いがありましたが、最終的には、前議の通りで決定し、総裁職・老中が参内して決議の内容を言上することになりました。(『続再夢紀事』) ●朝廷参豫会議(春嶽のみ出席) 【京】元治元年3月5日、朝廷は、幕府の返答を受けて、前の沙汰通りの長州藩の末家・家老の大坂召命(入京不可)を決定し、長州藩に通達しました。 参内した春嶽は、予め中川宮に幕議の赴きを言上し、総裁職・老中からも二条関白らへ言上したところ、「至極尤もの次第なり」ということで、朝議も大坂召喚で決まりました。(『続再夢紀事』) ●朝廷参豫会議の終焉 この日の朝議には、慶喜・容保・久光に加えて、宗城も出席せず(注3)、参豫は春嶽1名のみとなりました。この日を最後に、参豫が朝議に召集されることはありませんでした。
○長使(末家・家老)入京問題おさらいbyヒロ→◆3/4 参考:これまでの朝廷参豫会議の概容(最終版)
参考:『伊達宗城在京日記』p359-363、『続再夢紀事』三p7-9、(2010/4/21) 関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■その他の出来事 【京】将軍参内は7日に延期(『伊達宗城在京日記』p366−369) 【京】春嶽、宗城訪問(『伊達宗城在京日記』p366-369) 【京】二条関白病床の容保に典薬を派遣。将軍家茂、近侍と侍医を派遣。この頃、容保死去の巷説あり(『維新史料綱要』五p160) 【京】新選組、近藤・土方・沖田・藤堂ら酒宴 【江】仏国全権大使ドゥ・ベルクール、後任レオン・ロッシュを幕府に紹介(『維新史料綱要』五) |
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