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元治1(1864)

開国開城26:参豫の幕政参加&横浜鎖港&長州処分問題
と朝廷参豫会議の崩壊(元治1年1月−3月)

<要約>

文久3年12月から翌元治1年1月にかけて成立した朝廷参豫会議は、参豫諸候の幕政参加・横浜鎖港・長州処分をめぐって、慶喜と他の参豫(特に春嶽・宗城・久光)の間に意見対立と感情の疎隔が生じた。参豫会議は同年3月に崩壊し、政治の主導権は幕府に帰することになった。

天皇から参豫諸候と協力するよう命じられた幕府は、二条城に参豫諸候を呼んで国事を協議するようになった。だが、幕政の最高意思決定機関である御用部屋入り(幕政への正式参加)が許されたのは春嶽だけであった。幕閣は他の参豫(雄藩代表)の御用部屋入りに反対で、慶喜もひそかに同調していた。しかし、守護職を打診された春嶽が、条件として政体一新を強く要求し、中川宮に促されたこともあり、2月16日、幕府は、やむなく宗城・容堂・久光に御用部屋入りを命じた。A.参豫(雄藩代表)の幕政参加問題

横浜鎖港問題については、参豫諸候のほとんどは開国論で、当初、慶喜もこれに同意していた。しかし、将軍とともに上京した老中は、開国論に積極的な薩摩藩に政治的主導権をとられるのを恐れて、横浜鎖港にこだわり、慶喜も将軍上洛を期に鎖港論支持に転じた。慶喜と他の参豫諸候(久光・春嶽・宗城)の対立は2月15日の朝廷参豫会議(御前会議)・翌16日の中川宮邸で決定的となった。(B.横浜鎖港問題と参豫会議の分裂)。

長州処分については、2月中に方針がまとまり、25日には長州末家・家老ら3名を大坂に召喚して訊問することが決まった。しかし、筑前藩から京都召命の建議が起ると、朝廷は動揺し、29日、大坂召命を一時撤回した。朝廷の無定見さに失望した参豫諸候は、相次いで朝議への参加をとりやめ、朝廷参豫会議は崩壊した。慶喜ら参豫諸候は揃って辞表を提出し、3月半ばに全員が御役御免になった。宗城・久光は、3月17日、朝議参豫御免を理由に御用部屋入りを辞退した(容堂は2月28日に既に帰国)。こうして、京都における政治の主導権は幕府が掌握することになった。C.長州処分問題と参豫会議の崩壊

参豫会議の誕生・将軍再上洛と公武合体体制の成立戻る
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慶喜の禁裏守衛総督就任と庶政委任の再確認


幕府/京都 将軍:家茂19歳 後見職:一橋慶喜28歳 総裁職:松平直克 25歳
守護職:松平容保30歳 老中:酒井忠績 37歳 老中:水野忠精 33歳
所司代:稲葉正邦(淀)31歳
幕府/江戸 老中:板倉勝静42歳 老中:井上正直 28歳 老中:牧野忠恭41歳


朝廷 天皇:孝明孝明天皇34歳 関白:二条斉敬 49歳 国事扶助:中川宮41歳
朝議
参豫
一橋慶喜28歳 松平容保30歳 松平春嶽(前越前)37歳
島津久光(薩摩国父)48歳 山内容堂(前土佐)38歳 伊達宗城(前宇和島)47歳


A.参豫諸候の幕政参加(御用部屋入り)問題
(元治1年1-3月)


春嶽の御用部屋入り

元治1年1月21日の宸翰(内諭 こちら)で、参豫諸候5名(容保・春嶽・容堂・宗城・久光)と協力するように命じられた将軍は、翌22日、登城した宗城・久光に宸翰を示して協力を依頼したが、宸翰中に参豫諸侯の具体名があったことで、「幕府の諸有司は少しく嫌疑の念を起し」た(こちら)。(宸翰は薩摩藩が起草したものなので、疑念は全く的外れとはいえない)。この後、24日、25日、28日と、参豫諸候は二条城に呼ばれて幕閣と国事に関する協議を行った(仮に二条城会議と呼ぶ)。しかし、幕府の最高意思決定機関である御用部屋入り(=幕政への正式参加)を命じられたのは春嶽だけであった(こちら)

◆参豫諸候(雄藩代表)の御用部屋入り問題

●幕閣の抵抗
1月27日、天皇は、将軍に宸翰(詔書)を下した後、将軍との酒肴の席に総裁職・老中を召し出して、参豫諸侯と協力して議論し、「皇運挽回」に尽力するよう改めて命じた(こちら)。翌28日、老中は、春嶽に対し、朝廷が参豫を置くことは「公平の御処置」ではないと廃止論を述べたが、春嶽は、逆に参豫は、この際「参豫を廃して幕府の参謀に加」えれば、「真に公平」に至るだろう、と提案した(こちら)。参豫側は慶喜を通して御用部屋入りを幕閣に働きかけたが、認められず、代わりに、二条城の慶喜詰所に通されることになった(こちら)

●春嶽の守護職就任と「政体一新」の要求
その後、2月2日、5日、8日と、二条城会議(慶喜詰所)が開かれ、8日には長州処分の基本方針が決定された。翌9日、幕府は容保の征長副将任命及び守護職更迭を決定し(こちら)、将軍上京前の参豫諸候集会(こちら)で合意された通り、容保の代りに春嶽に守護職を任命することになった。ところが、春嶽は、幕議が今のように「因循」では守護職は務められないと考えており(こちら)、13日、参豫諸侯を老中の上に置いて国事を議論する制度設立を求める意見書を将軍に提出した(こちら)。さらに、15日、幕府が春嶽を守護職に任命すると、守護職拝命の条件として、参豫諸侯の御用部屋入りによる「政体の一新」を求めた(こちら)。

●中川宮の圧力
また、2月14日、宸翰(1月27日の詔書)の請書を提出するために参内した将軍は、その折に中川宮から「参豫の諸侯を閣中に入れて国事を議せしめられては如何」と促され、その通りにすると約束した(こちら)。(参豫側から中川宮に働きかけがあったのではと思われる)

●宗城・容堂・久光の御用部屋入りと慶喜の不快感
2月16日、幕府に呼ばれて登城した宗城・容堂・久光は、慶喜詰所において、老中から、「御用之有節ハ御用部屋へ罷出候様」との達しを受けた。(容保は13日に御用部屋入りを命じられている)。一方、この日、御用部屋に入った慶喜は、そこに久光らがいるのをみて、「仰天」したという。彼らと協力せよとの朝命はあったものの、「是迄相防居候処」、春嶽が「守護職の威に乗」じて「決断」したものであろう、と参豫の御用部屋入りに熱心だった春嶽を批判し、「徳川家の紀律今日より相崩れ申候」と嘆いたという。(こちら

●宗城・久光の御用部屋入り辞退
久光・宗城らが御用部屋入りを命じられた直後、横浜鎖港問題をめぐって慶喜と久光・春嶽・宗城の意見が対立し、慶喜が暴言を吐いて、両者の間には感情的な齟齬が生じた(B.横浜鎖港問題と参豫会議の分裂)。その後、3月に入って朝廷参豫会議は急速に崩壊し、3月半ばには、内願により、参豫はお役御免になった。宗城・久光は、17日、朝議参豫御免を理由に御用部屋入りを辞退した。(容堂は2月28日に既に帰国)
容保の御用部屋入り
参豫の一人である容保は、病床にあった。そのためか、二条城会議には一度も顔を出していない。参豫諸候の集会にも最初に出席しただけであり、参豫の御用部屋入り運動には関与していなかった。2月11日に、征長軍副将に任命されるとともに守護職から陸軍総裁職(後、軍事総裁職に改称)に転じ(こちら)、13日に、日々登城・御用部屋入りを命じられたが(こちら)、御用部屋にも出仕していない。(ちなみに、朝廷参豫会議にも一度も参加しなかった。)。
関連:■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)


B.横浜鎖港問題と朝廷参豫会議の分裂
(元治1年1-2月)


◆幕府の鎖港方針vs参豫諸候の開国論

●幕府の方針
幕府は各国との条約の当事者であり、本音では開国説である。しかし、文久3年8月の政変で、尊攘急進派は京都を追放されたものの、孝明天皇が頑固な攘夷主義者であることには変わらなかった(こちら)。そこで、攘夷の具体的方策として、幕府は横浜鎖港を決定し(こちら)、9月に各国公使と鎖港交渉を開始した。さらに、12月には本国政府と直接交渉させるため、鎖港交渉使節をヨーロッパに向けて出立させた。(←「横浜鎖港問題と将軍再上洛(開国開城25)」

●薩摩主導の開港論
これに対し、参豫諸候のほとんどは開国論であった。中でも久光は積極的で、将軍上落前の参豫集会において、慶喜に向かって幕府の方針を「姑息」だと批判した上、鎖港交渉使節派遣中止を求めた。これに対し、慶喜も異議は唱えなかった(こちら)。久光は、さらに、密かに手を回して、無謀な攘夷を戒める内容の宸翰が将軍に下るようにした(こちら)。

●慶喜の変節
当初、久光の唱える開国論に同意していた慶喜だが、将軍の上洛を期に、幕府の主張する鎖港論に転じた。慶喜の回顧談によると、幕府は、将軍上洛の前に、御前会議にて、決して「薩州の開港説」には従うまいと決めていたらしい。文久3年の上洛時には長州に迫られて破約攘夷を方針とし、今度は薩摩に従って開港になったのでは、幕府には「一貫の主義」がなく、いたずらに外様藩に翻弄される姿になるのを嫌ったのだという。老中が、薩摩の説に従うなら辞職すると言い出し、将軍に確認すると将軍も老中と同意見だというので、本心は開港だが、やむなく幕府の鎖港論に同調したのだという(こちら)。

◆無謀・軽率な攘夷を戒める宸翰

●二度の宸翰孝明天皇
元治1年1月21日、 将軍に下された宸翰(内諭)には、「無謀の征夷」は天皇の「好」むところではなく、(幕府が)「策略を議して」天皇に奏上した結果に基づき、「一定不抜の国是を定」めたい、と記されていた(こちら)。また、27日、在京諸候を率いて参内した将軍に下された宸翰(詔書)は、諸外国に比して日本の武備が不十分であることを指摘して、「妄に膺懲(ようちょう)の典を挙」ることを戒め、武備充実(砲艦整備・摂海防御強化等)を求める一方、天皇の「命を矯めて軽率に攘夷の令を布告し」た三条実美ら七卿及びそれに呼応して「故なきに夷船を砲撃し」た長州藩を断罪する内容だった(こちら)

●宸翰の「開港の意味」に対する慶喜の疑念
開国開城25で記したように、慶喜は、1月27日の宸翰に「開港の意味」が含まれると違和感をもった。調べた結果、久光/薩摩藩が二度の宸翰の草稿を作成して密かに朝廷に提出したことをつきとめたという(こちら)。正確な時期は不明だが、これにより、慶喜/幕府の薩摩藩への嫌疑は決定的なものとなったといえる。

◆国是(攘夷か開国か)決定

●久光らの妥協
2月2日の二条城会議において、久光は、幕府が方針とする横浜鎖港は「不策」だとの持論を主張した。春嶽・宗城も同調したが、老中は「一々御尤至極」だが「尚篤と考案の上御相談」したいと述べるだけだった(こちら)。結局、久光が折れることになり、不本意ながら、横浜鎖港は交渉使節帰国までの鎖港を是として当面は幕府に任せることを春嶽に相談し、その同意を得た(こちら)

●宸翰請書の提出
2月14日、将軍は参内して宸翰(1月27日の詔書)に対する請書を提出した(こちら)。破約攘夷については、横浜鎖港に限定しており、その見込みについては、既に外国へ使節を派遣したが、「何分にも成功仕度奉存候得とも」外国の事情は予測し難い、とする内容であった。幕府は翌15日に宸翰及び請書を布告した(こちら)が、同日に開かれた朝廷参豫会議(御前会議)では、横浜鎖港に関する文言をめぐって、朝廷から疑問が呈された。

◆参豫会議の分裂

●朝廷参豫会議(御前会議)における対立
15日の朝議では、まず慶喜だけが簾前に呼ばれた。朝廷側は、請書中の横浜鎖港に関する文面が曖昧だと指摘した。慶喜は、請書は既に布告済みで取り消すことはできないので、朝廷が横浜「断然鎖港」の新たな宸翰を作成し、それに幕府が添書をして改めて布告することを提案し、了承された。次に、春嶽・宗城・久光を交えた朝議が行われ、請書の文面が曖昧だとの苦情とともに、中川宮から横浜急速鎖港の沙汰書が示された。久光らは急速鎖港は「無謀」だと反論したが、慶喜は、幕府に持ち帰って相談の上、明後17日に請書を出すことを主張した。参豫内で意見が対立したが、結局、慶喜の意見で決着した。(こちら)

●中川宮邸における激論と慶喜の暴言
翌16日、慶喜が二条城の御用部屋に入ると、久光・宗城が居合わせており(上記「参豫の御用部屋入り問題」参照)、今朝、中川宮が薩摩藩士を呼び出し、昨日の朝議(急速な横浜鎖港)は「全く一時之拠なき都合」であのようになった、「アレ(=急速鎖港の沙汰書)ハ偽りニ尽見消シニ致」すよう命じたと言い出した。その真意を確認するために中川宮邸に参上するつもりで、慶喜を待っていたという。驚いた慶喜は「夫ハ相成不申」と、一緒に中川宮を訪問することになった。

中川宮邸では酒肴が出された。慶喜の詰問に対し、中川宮は偽りとはいっていないと否定した。慶喜は激論の果て、朝議がとかく変化するなら宸翰を願い出ても無益だから、幕府の方から断然鎖港の請書を別途提出すると言って退出した。その流れで、本来開港派の春嶽・宗城・久光も、横浜鎖港不可の矛を収めざるをえなくなり、春嶽は、慶喜の言どおり、横浜鎖港に関する請書を17日に提出することを中川宮に約束した。

席上、 慶喜は、中川宮が薩摩藩を信用し、その「奸計」に欺かれているから、「異同」が起こるのだと難詰し、さらに「暴論」ついでとして、春嶽・宗城・久光の3名を「天下之大愚物・天下之大奸物」と評し、中川宮に彼らを信用せぬよう言い放ったという(こちら)

両日の出来事は、参豫諸候内の分裂(慶喜vs春嶽・久光・宗城)を決定的なものとした。

◆横浜鎖港請書の別途提出

2月18日、幕府は横浜鎖港の請書を別途提出した(こちら)。ポイントは以下の通り。

(1) 横浜鎖港については、外国に交渉使節を派遣しており、いずれ「成功を遂可申見込に御座候に付」、このことを言上する。
(2) 右使節の帰国には年月を要するため、それまでは「摂海を初各国沿海之武備」充実に努め、「膺懲之御趣意」を「一日も早く貫徹」するようにしたい。

同日、春嶽・宗城・久光も、これに同意する旨の意見書を朝廷に提出した。もちろん鎖港に本心から同意していたわけではなかった。(一方、摂海等の武備充実は彼らの持論でもある)

これに対し、朝廷は、21日、横浜鎖港を成功させ、武備充実については当面摂海防御を急務とせよとの勅旨を将軍に下した(こちら)
容保の朝議不参
会津藩は鎖港論だった。しかし、容保はこの頃、ずっと病床にあり、そのためか、朝廷参豫会議には一度も参加していない。横浜鎖港に関するその他の会議にも参加しておらず、他の参豫諸候に自らの意見を伝えることもなかった。

容堂の朝議不参
容堂は開国論である。しかし、参豫に任命されてほどなく(1月7日)、病を理由に参豫の辞表を提出しており、一度も朝廷参豫会議には参加しなかった。ただ、容堂は容保と違って、二条城会議や参豫の集会には何度か顔を出しているし、他の参豫と書面で意見・情報を交換している。2月10日に帰国願いを提出後は、これらの会議への参加もとりやめていた。同月20日には、再び帰国願いを出して、参豫辞任・帰国が許可され、28日に退京した。

関連:■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」同文久3年「横浜鎖港問題(1)」■テーマ別元治1年「横浜鎖港問題(2)「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)

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C.長州処分問題と朝廷参豫会議の崩壊
(元治1年1-3月)


長州家老の入京・嘆願問題

これより先、文久3年8月18日の政変の報を受けた長州藩では、無罪を訴える嘆願書を家老根来上総に授けて京都に派遣したが(こちら)、朝廷は入京を許さなかった(こちら)。その一方で、長州藩は、世子定広の上京を決定し、10月1日、藩内に「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達した(こちら)。同月23日、入京を果たせなかった根来が山口に帰りついた。長州藩は、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達するために、家老井原主計に新たな嘆願書(「奉勅始末」)を授けて西上させた(こちら)。井原は伏見に入り、入京を嘆願したが、朝廷はこれを許さず、代わりに12月、使者を伏見に派遣して井原の口上を聴取させた(こちら)。翌元治1年1月21日、終に井原は入京を断念して下坂した。

◆長州必罰の宸翰(詔書)孝明天皇

元治1年1月27日に将軍に下された宸翰は、天皇の命を矯めて「軽率に攘夷の令を布告し、妄りに討幕」を企てた三条実美らと長州藩の「暴臣」のような「狂暴の輩」は「必罰」すべきであるとし、強い調子で長州藩及び三条実美らの処罰を求めた(こちら)

◆長州処分の基本方針決定

翌1月28日、二条城にて、長州処分に関する参豫諸候・幕閣の会議(二条城会議)が行われた。前土佐藩主山内容堂は将軍帰府・長州藩主父子の江戸召喚を主張したが、前年末、長州藩に幕府から借用していた蒸気船を砲撃・沈没させられていた薩摩藩主父の島津久光は、将軍滞京の上の征長軍派遣か大坂召喚を主張した。二人は激しく対立し、結論がでなかった(こちら)。

2月8日、関白二条斉敬邸に、朝廷・幕府・参豫の主だった者が集まり、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討を決定、の3点が決まった(こちら)。この結論を踏まえ、幕府は征長部署を決定し、11日に、関連諸藩に内意を通達した(こちら)。

2月24日の朝議(朝廷参豫会議)において、長州藩末家・家老・吉川監物の3名の大坂召喚が決定され(こちら)、25日には朝・幕から召命が出された(こちら)

朝議の動揺と朝廷参豫会議の崩壊

●長使入京問題
ところが、その後、長州に同情的な諸候から、朝廷の沙汰による召喚なら長使を入京させるべきだとの意見書が出され(こちら)、召喚場所をめぐって朝議は動揺した。朝廷は、長使入京の可否について、参豫諸侯に内々に下問した。春嶽・宗城・久光(+容保)は、大人数を率いての入京になれば朝議が動揺し、禁門の政変以前の形勢に戻る恐れがあるとみて、入京に反対した。しかし、朝廷は決断できず、29日、大坂召喚の沙汰を一時見合わせた上で、改めて朝議を開いて「衆議」をきくことを決めた(こちら)

●朝廷参豫会議の崩壊
久光・宗城は、朝廷の優柔不断さに失望した。3月2日、4日、5日と参豫が召集されたが、久光は2日以降、病を理由に朝議を欠席した。2日は議論がまとまらず、宗城によれば「多分沈黙いねむりいねむり出候」ばかりという状況であった(こちら)。4日の朝議は慶喜が「不快」のため、欠席した。この日も入京可否の結論は出せず、結局、長州が入京しても禁門の政変以前のような状態にならないよう、幕府が保証しなければ入京は不可であり、幕府の返答次第で可否を決めることになった(こちら)。5日、宗城は、「少々眩暈」気味の上、慶喜が不参で「弥(いよいよ)つまらぬ故」参内を断った。この日、朝議に先立って開かれた幕議の結論を踏まえ、朝廷は大坂召喚を改めて決定し、長州藩に通達した(こちら)。朝議に参加した参豫は春嶽だけであり、事実上、朝廷参豫会議は崩壊した。

3月6日、久光は参豫辞退・帰国許可を内願した。9日、慶喜は自らと他の参豫諸候(春嶽・久光・宗城・容保)の辞表を二条関白に提出し(こちら)、3月半ばに御役御免になった。また、宗城・久光は、17日、朝議参豫御免を理由に御用部屋入りを辞退した。(容堂は2月28日に既に帰国)

こうして、京都における政治の主導権は幕府が掌握することになった。
長使(末家・家老ら3名)入京に反対
容保は参豫に任命されながら、病床にあったこともあり、朝廷参豫会議・二条城会議等に参加することなく、参豫の御用部屋入り・横浜鎖港問題についても藩士を動かした様子はない。しかし、長使入京問題については、藩士が越前藩邸を訪ね、入京不可を論じている(こちら)。 会津藩は、前文久3年末に、長州家老井原主計が「奉勅始末」を携えて上京を嘆願した際にも、その入京に断固反対しており(こちら)、長州勢の入京に神経を尖らせている様子がうかがえる。
大挙上京見合わせ
長州藩は、朝幕・諸藩に対しては入京嘆願等の雪冤運動を進める一方で、内には武備を整え、2月15日に布告された宸翰(こちら)の文面に激昂する主戦派をなだめながら、進発の機会をうかがっていた。3月、末家ら3名の大坂召命が決まると、これを期に藩主父子どちらかが率兵・大挙上京することに決したが、19日、在京勢(桂小五郎・久坂玄瑞)から、形勢が攘夷派に有利になりつつあるので、時機を待つよう要請があり、決行を延期した。(参豫会議の崩壊等公武合体派の足並みの乱れや、筑波において、かねてから長州と盟約を交わしていた水戸藩尊攘激派の急進派(天狗党)が挙兵準備を進めていることなどが攘夷派に有利だと受取られた)
関連:■テーマ別文久3「長州・七卿処分問題(1)」長州藩の東上(進発vs慎重論)」■ テーマ別元治1年「長州・七卿処分(2)「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)

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注:元治に改元されたのは文久4年2月20日ですが、便宜上、1月1日から元治元年としています。
(リンク先の「今日の幕末京都」は文久4年2月20日から元治1年になっています)


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慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任と庶政委任の再確認

( 2011.1.6、1.13)

<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『会津藩庁記録』・『鹿児島県史料・玉里島津家史料』・『伊達宗城在京日記』『修訂防長回天史』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『維新史』『日本歴史大系 開国と幕末』・『幕末政治と倒幕運動』・『徳川慶喜増補版』・『幕末政治と薩摩藩』(リンク先の参考文献も参照してください)

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