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元治元年3月8日(1864年4月13日)
【京】:中川宮ら、慶喜に幕政一新の努力を求める/
薩藩家老小松帯刀、一橋家・黒川慶兵衛に慶喜主催の諸賢侯集会再開を求める/
【京】越前藩、幕政一新のため、春嶽が慶喜に奮発・担当を勧告すべきの藩議。


☆京都のお天気:陰微雨(久光の日記より)
参豫会議解体
●参豫の幕政参加

【京】元治元年3月8日、越前藩在京要職は、評議の結果、幕政一新のためには、春嶽が慶喜の「奮発・担当」を勧告すべきだと議定しました。

この日の春嶽の出邸前、越前藩在京要職は、春嶽臨席の下、「幕府の政権を一新する方策」を評議しました。容易に結論が出ず、春嶽の出邸後も議論を続けた結果、、幕政一新には慶喜の奮発がなくては不可能であり、慶喜を奮発させるため、春嶽も努力すべきであると決しました。

<ヒロ>
参豫会議が事実上崩壊してしまったことへの危機感もあったと思います。

【京】元治元年3月8日、中川宮は一橋慶喜に「幕府の政体を一振(ママ)する事に「奮発勉励」するよう説諭しました。同席した松平春嶽や長岡良之助(肥後藩主弟)も中川宮に同意し、慶喜の努力を求めました。

●慶喜vs薩摩藩
【京】元治元年3月8日、薩摩藩家老小松帯刀は一橋邸を訪ね、応対した黒川嘉兵衛を介して慶喜主催の諸侯集会再開を求めました

その後、越前藩邸を訪ねた小松が中根雪江に語ったところによると、小松は慶喜に拝謁を求めて「死を決して言上する」つもりだったのですが、慶喜が不在だったので、黒川に、「国歩艱難の今日」であるので、将軍上洛前のように慶喜が毎日「諸賢候」を集めて評議すべきであること、そうでなくては「人心疑惑を懐き」、「離間」が行われるかもしれないと意見しました。黒川は異議は唱えなかったものの、慶喜に言上するとも言わなかったので、小松には「頗る冷淡な応答」に感じられたそうです。


参考:『続再夢紀事』三p10-11(2002/4/25)
関連: ■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府)「参豫の幕政参加問題「横浜鎖港問題(元治1)」

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