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元治元年3月9日(1864年4月14日)
【京】:慶喜、参豫諸侯の参豫辞退を願い出る

【京】二条関白、慶喜に、容保の守護職復職が遅れている理由を質す。


☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■参豫会議解体朝廷参豫会議の廃絶
【京】元治元年3月9日、一橋慶喜は朝廷(二条関白、中川宮、近衛前関白)に参豫諸侯の参豫辞退を願い出ました。

<細かいはなし>
3月9日の伊達宗城の日記によれば、この日、慶喜から「参預の義御断御相談」があったが、「無別慮趣」を返答したところ、関白・中川宮・近衛前関白へ、慶喜が願い出たそうです。また、久光の日記にも、「朝廷参豫御免の義、先日(九日)一橋ヨリ関白殿下へ願被置候・・・」とあります。慶喜は、少なくとも久光・宗城と自身の参豫辞退を一緒に願い出たことはわかります。ちなみに、宗光への解免の沙汰は13日に出ています。(宗城の日記には14日の項に書かれていますが、沙汰書の文面は同じ趣旨です)

春嶽なのですが、『続再夢紀事』の3月13日の項に「兼て願置れたる参豫を免ぜられたり」とあり、沙汰書の文面は久光・宗城へのものと同じまでが、参豫辞退をいつどのように願い出たかは記されていませんでした。でも、久光・宗城と自分の分だけ出すというのも変なので、全員の解免を願い出たと考えたほうが自然かなぁと思います。ちなみに、容保への沙汰は14日に出たようです(七年史)。

参考:『伊達宗城在京日記』p377、『玉里島津家史料』p756、『続再夢紀事』p16 (2010//4/25)
関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「参豫会議解体
■松平容保の守護職再任
【京】元治元年3月9日関白二条斉敬は、舞楽を鑑賞に参内した一橋慶喜に対し、「叡慮」があるにモ関らず、容保の守護職復職が遅れている理由を質しました。慶喜は容保の病を理由に挙げたそうです

勘定奉行松平石見守(松平康英)が会津藩公用方の外島機兵衛に語ったとされる目撃談(『会津藩庁記録』)によると・・・

関白の<「会津家復職の儀」は「叡慮を以」て仰出されたのに、如何様の次第ニて延引しているのか>という質問に対して、慶喜は「御用多」に取り紛れて延引している旨を返答したそうです。関白が<「天下之安危ニも関係致候儀」であり、「叡慮」を以って仰出されたこと程「重キ御用ハ有之間敷」である。いかが心得ておられるのか>とたたみかけると、慶喜は容保が「不快中」であり、「猶所存も可有之儀、内々相尋候上之儀と存居候」という風に「取繕」ったようだったといいます。

*この日は将軍及び在京諸侯が参内して舞楽を鑑賞していました。(『維新史料綱要』五)

<ヒロ>
●孝明天皇の「会津家復職」の叡慮
孝明天皇は、2月16日に容保に二度目の宸翰を送って守護職復帰を望む旨を伝えていましたが(2/16)、この時点では、容保の復職は「事(=征長)済之上」の話でした。天皇は容保に対して内密な依頼があったのですが(依頼内容は明かされていない)、そのためにも守護職復職を希望していました。ただし、依頼の件は「守護職ならば重畳」だが守護職である必要はないとしており、復職までに時間がかかるなら、復職せぬままに実行が可能かどうかを容保に打診しており、また、現守護職の春嶽にも依頼を試みるべきかどうかと相談もしています。(奉答書において、容保は、守護職復職については天皇・将軍より沙汰があれば遵奉すると回答し、天皇が春嶽に依頼を試みる件については、春嶽は沙汰があれば遵奉するだろうし、その方が御都合もよいだろうと回答しました)。つまり、このとき、孝明天皇は、容保の守護職解任を残念には思うが、春嶽の守護職を受け入れようとしており、容保の復職を希望はしていましたが、それは今すぐではなく征長後という先のことでした。

しかし、それから約1週間後の2月23日、中川宮が伊達宗城に「春岳守護職不宣」(『伊達宗城在京日記』)と伝え、翌24日には二条関白が慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝えていました。

やはり、春岳が、15日の朝廷参豫会議(御前会議)において、朝廷の求める急速な横浜鎖港に反対したことが(2/15)、鎖港攘夷派の孝明天皇・公卿らを刺激したのででしょうか??

●幕府が「叡慮」を放置していたわけ
容保が守護職復帰となれば、当然現守護職の春嶽はどうなるのか、という話になります。両家に軋轢が生じるのではないかと心配でしょうし、容保の征長副将をどうするのか、ということも考えなくてはならないでしょう。そんなこんなで、幕府は朝廷の沙汰をうっちゃっておいたというところではないでしょうか。(朝廷が、この時点では、春嶽の辞職の沙汰を下していたかどうかはよくわからないのですが、もし、解任を求めていなかったとすると、会津・越前の両藩が守護職にという状態になります。いったいどういう風に兼任させるのか、これも難問です)

ちなみに二条関白と容保は、2月5日に「両敬の親」を結んでいる仲です(こちら)。

参考:『会津藩庁記録』四p313(2010/6/27, 10/1)
関連:■テーマ別元治1 「容保の守護職再任」■「とことん京都守護職会津藩」

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