5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆4/13へ  ◆4/15へ

元治1年4月14日(1864年5月19日)
【京】幕府、容保の守護職辞表却下。病が快癒すれば出勤するよう命じる
【京】将軍家茂、水戸藩主徳川慶篤弟(余八麿)を会津藩主松平容保の継嗣とする
仲介を前尾張藩主徳川慶勝に求める

☆京都のお天気:晴冷(久光の日記より)
■容保の守護職再任
【京】元治元年4月14日、幕府は、会津半の守護職辞職願を却下し、病がいえれば出勤するよう命じました。

この日、老中が会津藩家老を呼び出して下した容保宛の沙汰書の要点は以下の通り。(適当に意訳・箇条書きしています)
容保が、先頃から病であり、全快に時間のかかる容態であるために、辞職を願うのはもっともである。
だが、将軍は容保を「深く御依頼」であり、辞職によって一昨年来の容保の「功業」が「半途に廃絶」になるは残念に思っている。よって、辞職願は許可しがたい。
病については、「聊(=いささか)無心配、何時迄も心永に、篤と養生相加」え、「気分快癒」すれば「出勤」するように。
参考:『七年史』ニp170-171(2010/10/10)

<ヒロ>
容保の病を口実に辞職運動をしてきた会津藩でしたが、「聊無心配、何時迄も心永に、篤と養生相加、気分快癒罷成候はば出勤」せよといわれてしまいました・・・。その上、病を心配した家茂はこんなアクションを・・・↓

****
【京】元治元年4月14日、将軍徳川家茂は、内書を前尾張藩主徳川慶勝「前権大納言」に与えて、水戸藩主徳川慶篤弟余八麿(のち昭武)を、会津藩主松平容保の継嗣にする仲介を求めました 。

前尾張藩主徳川慶勝は容保の異母兄です(どちらも美濃高須藩からの養子)。慶勝が会津藩に示した内書によれば、将軍は容保が久しく病気であることを心配し、特に、容保に未だ嗣子がないことが気力を引き立てる障害になっているのでは思っており、ちょうど在京している余八麿が年齢等も相応なので養子にすればよい、と考えたようです。

なお、後に、この約束を成立させるにあたって、容保は水戸家に藩士の手代木直右門を派遣して、次の三事を約束させたそうです。
(1) 他日、容保に実子が生まれた場合は、余八麿の継嗣とすること
(2) 余八麿の教育は全て会津藩の家風に従うこと
(3) 水戸藩からの付人を謝絶すること

ところが、結局、約束は実現しませんでした。この件の公許を得ないうちに、家茂が死去します。代わって将軍となった慶喜は余八麿(自身の異母弟)を自らの継嗣とし、容保はその弟の余九麿を改めて継嗣子とすることになります。

参考:『京都守護職始末』2,p47, p223(2010/10/14)
関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職再任問題

■その他の主要な動き
【京】久光、一橋邸及び越前藩邸を訪れ、暇乞い。(『玉』ニp760)
【江】水戸藩支藩宍戸藩主松平頼徳・前藩主松平頼位、書を禁裏守衛総督一橋慶喜に致して、切に横浜鎖港決断を請い、また書を備前藩主池田茂政に寄せて、斡旋を求める。 (『維』五)
【江】幕府、歩兵頭河野通伽・歩兵頭並横田五郎三郎・大砲差図役頭取御手洗寛一郎・持小筒組差図役松平五左衛門に命じ、兵千人を率いて日光山を警守させる。(『維』五)
【長州】藩主毛利慶親、1月27日の将軍家茂への勅書に関し、上書。 (『維』五)

◆4/13へ  ◆4/15へ

5月の幕末京都  幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ