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元治1年4月23日(1864年5月28日)
【京】一橋家臣平岡円四郎、越前藩中根雪江に将軍東帰の見込みを伝える。
中根から市中潜伏の「暴人」決起に対する警備体制を問われると
茫然として老中に言上すると述べる

☆京都のお天気:双天。夜同断(『幕末維新京都町人日記』)
■将軍家茂・東帰

【京】】元治元年4月23日、一橋家臣平岡円四郎は、訪ねてきた越前藩士中根雪江に対し、去る20日に下付された直書の請書を提出後、将軍が東帰する見込みだと話しました。

また、平岡は、中根に京都市中に潜伏する「暴人」の決起に対する警備体制を問われると、茫然として老中らに言上すると述べました、


二人のやりとりはこんな感じ↓
平岡 近々、大樹公は御請けのために御参内される予定だが、恐らく27、28日のどちらかになろう。請書を差し出されれば、「御一和の筋ハ全く結了の姿故」、引続いて、御暇が命じられ、御帰東になるだろう。また、御参内前には、兼ねて御詮議のある尹宮(=中川宮)の御家禄増加、山階宮の御家禄設定、摂海防御経費の諸侯賦課等の件も決定するはずである。

貴君は、春嶽公御帰国後はどうされているのか?
中根 近日は何もせず、頗る閑暇である。
平岡 では、京師四方の通路に警備を立てる方策を考えられ、それを建白されてはどうか?
中根 四方から京師に侵入する「暴人」の警備も入用だろうが、万一京中に突起して玉体神器を奪おうとする「暴人」がいればその警備はどうするのか?
平岡 (茫然の態で)それは意表の御質問にてなんともお答えのいたし方がない。速やかに閣老衆に言上しよう。
(管理人は素人なので絶対に資料として使わないでね。適宜、原文にあたってください)

<ヒロ>
市中警備は、8.18の政変後、在京諸藩が担当していましたが、3月23日の幕命で(*1)、諸藩による警衛は廃止され、守護職(越前藩)・町奉行・新選組が警衛を命じられました。さらに、4月19日の幕命(*2)によって、禁裏守衛総督、守護職(会津藩)、所司代が担当を命じられています(こちら)。この間、守護職が実質上は不在でした。越前藩は3月21日に守護職辞表を幕府に提出しており、4月7日には解任されています。同日、会津藩に守護職再任が命じられますが、会津藩はこれに抵抗し続け、終に受諾したのが前22日のことです。これで、ようやく、市中警備体制の整備に本腰をいれることが可能になったともいえます。

このときの、中根は市中に潜伏している長州藩士やそのシンパである浪士が決起する可能性を指摘しているのですが、平岡の「意表の御質問」て・・・平岡や幕閣は今まで気づかなかったんでしょうか??同月26日(*3)に江戸において京都見廻組の新設が通達されているほどなので、京都市中の治安に関する危機意識は、当然ながら在京幕閣にもあったんじゃないかと思うんですけど・・・。禁裏守衛総督(一橋家)に市中警備が命じられたのは4月19日)のことですから、平岡には今ひとつ当事者意識が薄かったんでしょうか?

それにしても・・・市中で騒動が起る可能性を示唆されて、平岡は、幕閣に言上するのはいいとして、守護職(や所司代)に相談しようという発想がないんですねえ・・・。「一会桑」がまとまった勢力として機能するのはまだまだ先のようです・・・。

*1、*2、*3の日付はいずれも『維新史料綱要』より。

参考:『続再夢紀事』ニp118-119(2010/12/8)

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