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元治1年4月19日(1864年5月24日)
【京】前越前藩主松平春嶽退京
【京】幕府、禁裏守衛総督・守護職・所司代に市中巡邏・警衛を命じる
【坂】長州藩士木島又兵衛・桂小五郎・寺島忠三郎・久坂玄瑞ら
大坂藩邸に参集。世子毛利定広の率兵上京を議す
【江】水戸藩家老岡部忠蔵、朝幕への横浜鎖港断行の入説のために出立。

☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』)
■旧参豫諸侯の帰国
【京】元治元年4月19日、前越前藩主・松平春嶽が帰国のため、退京しました。

参考:『続再夢紀事』三p108(2010/10/21)

<ヒロ>
そして、誰もいなくなってしまいました・・・。代わって、京都で勢力を築いていくのが一会桑です↓

■京都の治安対策
【京】元治元年4月19日、幕府は、禁裏守衛総督(一橋慶喜)・京都守護職(会津藩主松平容保)・京都所司代(桑名藩主松平定敬)に市中の巡邏・警衛を命じました
会津藩は、藩士2組(60名)及び新選組を出しました。また、同日、幕府、会津藩の伏見街道警衛を免じ、有馬道純に命じました。

参考:『七年史』ニ、『維新史料綱要』五p232

<ヒロ>
文久3年8月の政変後、朝廷は、京都市中の警衛を在京諸藩に命じていました(9月4日付朝命)が、幕府は元治元年3月23日、守護職(当時は松平春嶽。但し、辞表提出中)・町奉行・新選組に市中守衛を命じると同時に、諸藩の警衛を廃止していました(こちら)

前日(4月18日)に、浪士が中川宮の諸大夫武田相模守宅を襲撃して、母親及び従士を殺害するという事件がありましたので、これを受けての市中警衛強化ということになるんでしょうか。(3月25日に、慶喜が総督に就任し、4月7日には守護職の交替(春嶽解任&容保再任)、同月11日に所司代の交替がありましたから、新体制のもとの市中警衛を改めて命じたともいえそうです。再任を抵抗し続ける会津藩へのプレッシャーという側面もあるかも?)

なお、禁裏守衛総督は、朝命によって新設されたポストで、慶喜の就任も朝命によるものでした。でも、幕府から市中警衛を命じられる・・・というと、幕府の指揮下にあるみたいな気もします。(実際の通達書がのっている資料をもっていないので、なんともいえませんが)

(2010/10/21)
■長州藩東上
【江】元治元年4月19日、長州藩士木島又兵衛・桂小五郎・寺島忠三郎・久坂玄瑞らが大坂藩邸に参集し、世子毛利定広の率兵上京を協議しました。


参考:『維新史料綱要』五(2010/10/20)

■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き
【江】元治元年4月19日、水戸藩家老岡部忠蔵が、藩命により、朝幕に横浜鎖港断行を入説するため、江戸を出立しました。
(着京は27日)

幕府への上書のポイントは以下の通り
「醜夷渡来以降」、再三、「掃攘」の御沙汰があり、公辺も「時々被仰出之趣」はあれど、「鎖港之儀」すら「三港共」従来通りの様子である。
それゆえ、「皇国之人気一和」せず、「畢竟人々」の「目的」が立たぬので「自然御国内騒乱」に至りつつあると聞く。
「鎖港之御一挙御執行」となれば、「天朝之御気色」にもかない、「皇国一統」は帰服・国恩を感戴して「天下之人心居合」い、そうなれば、「掃攘之御成功」も遠くはないと存じる。
さもなければ、今後、「内地之異変何時相生」じるか測りがたく、将軍が江戸不在であり、特に「不容易御儀」と、中納言(=慶篤)は深く心配している。
既に鎖港もお請けしたのだから、「速に御英決」されたい。
(↑管理人は素人なので資料として使わないでね)

岡部は、また、藩主徳川慶篤の二条関白・一橋慶喜宛の建白書を携えていきました。なお、上京計画を17日に知った幕府は、京都の政事総裁職松平直克や老中に急報して、水戸藩の建議に備えさせています(こちら)。

参考:『水戸藩史料』下p593-599(2010/10/21, 2012/4/7)
関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩・天狗争乱(元治1)」■おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)

【京】幕府、守護職の伏見街道警衛免除(→丸岡藩)

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