5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』) ■旧参豫諸侯の帰国 【京】元治元年4月19日、前越前藩主・松平春嶽が帰国のため、退京しました。 参考:『続再夢紀事』三p108(2010/10/21) <ヒロ> そして、誰もいなくなってしまいました・・・。代わって、京都で勢力を築いていくのが一会桑です↓ ■京都の治安対策 【京】元治元年4月19日、幕府は、禁裏守衛総督(一橋慶喜)・京都守護職(会津藩主松平容保)・京都所司代(桑名藩主松平定敬)に市中の巡邏・警衛を命じました。 会津藩は、藩士2組(60名)及び新選組を出しました。また、同日、幕府、会津藩の伏見街道警衛を免じ、有馬道純に命じました。 参考:『七年史』ニ、『維新史料綱要』五p232 <ヒロ> 文久3年8月の政変後、朝廷は、京都市中の警衛を在京諸藩に命じていました(9月4日付朝命)が、幕府は元治元年3月23日、守護職(当時は松平春嶽。但し、辞表提出中)・町奉行・新選組に市中守衛を命じると同時に、諸藩の警衛を廃止していました(こちら)。 前日(4月18日)に、浪士が中川宮の諸大夫武田相模守宅を襲撃して、母親及び従士を殺害するという事件がありましたので、これを受けての市中警衛強化ということになるんでしょうか。(3月25日に、慶喜が総督に就任し、4月7日には守護職の交替(春嶽解任&容保再任)、同月11日に所司代の交替がありましたから、新体制のもとの市中警衛を改めて命じたともいえそうです。再任を抵抗し続ける会津藩へのプレッシャーという側面もあるかも?) なお、禁裏守衛総督は、朝命によって新設されたポストで、慶喜の就任も朝命によるものでした。でも、幕府から市中警衛を命じられる・・・というと、幕府の指揮下にあるみたいな気もします。(実際の通達書がのっている資料をもっていないので、なんともいえませんが) (2010/10/21) ■長州藩東上 【江】元治元年4月19日、長州藩士木島又兵衛・桂小五郎・寺島忠三郎・久坂玄瑞らが大坂藩邸に参集し、世子毛利定広の率兵上京を協議しました。 参考:『維新史料綱要』五(2010/10/20) ■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き 【江】元治元年4月19日、水戸藩家老岡部忠蔵が、藩命により、朝幕に横浜鎖港断行を入説するため、江戸を出立しました。(着京は27日) 幕府への上書のポイントは以下の通り
岡部は、また、藩主徳川慶篤の二条関白・一橋慶喜宛の建白書を携えていきました。なお、上京計画を17日に知った幕府は、京都の政事総裁職松平直克や老中に急報して、水戸藩の建議に備えさせています(こちら)。 参考:『水戸藩史料』下p593-599(2010/10/21, 2012/4/7) 関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」「水戸藩・天狗争乱(元治1)」■おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」 【京】幕府、守護職の伏見街道警衛免除(→丸岡藩) |
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