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元治1年6月5日(1864年7月8日)
池田屋事件

元治元年6月5日(1864年7月8日)、祇園祭宵宵山の日。雨降り、夜双天。

◆古高俊太郎の捕縛と長州・浪士の密謀発覚

早朝、新選組隊士が会津藩を訪ね、これまで「浮浪」潜伏場所を探索したところ、その数20箇所余となり、新選組だけでは捕りもらす恐れもあるので、守護職からも人数を出すよう依頼しました(『会津藩庁記録』)。このころ、京中に「浮浪の徒諸所に潜匿して不軌を謀る」という流言があり、容保は新選組に探索を命じていたのだそうです(『京都守護職始末』)

早朝、京都木屋町の桝屋喜右衛門を逮捕した新選組は、拷問の上、彼が実は近江出身の志士古高俊太郎であり、また40人ほどの長州をはじめとする同志が京都に潜入しているとの自白を得たそうです(『甲子雑録』)。古高の屋敷から押収した書類をもとに詰問したところ、烈風をたのんで御所に放火し、中川宮と会津侯がいそいで参内するところを襲撃しようとの計画が判明したそうです(『京都守護職始末』)。





←枡屋喜右衛門宅跡



古高が不審を持たれた理由としては、にもなるのに独身で、商売も熱心ではないのに家作が広い(『会津藩庁記録』)、独身で町内の付き合いもなかった(『甲子雑録』)が記されています。なお、『改訂肥後藩国事史料』では、古高は養子であるのに商売に精を出さずに方々へ出かけ、帯刀することもあったので、親類から、木屋町筋警備担当の新選組に説教をするよう依頼のあったことがきっかけだったとしています。

古高の屋敷の土蔵からは火薬類も発見されて新選組が封印しましたが、これが何者かに破られて、甲冑や鉄砲が奪取されてしまいました。新選組は会津藩に使者を出し、公用方を招き、長州(浪人?)捕縛のために会津藩から人数を借りたいと申し出ました(『会津藩庁記録』)。

◆長州藩邸の動き

一方、古高逮捕を知った浪士たちは、長州藩邸に集まって議論し、古高の屋敷に攻め寄せて武器を奪い、さらに壬生の新選組屯所を攻めて古高を奪還しようと決めて、長州藩から人数を出すよう要請しました。しかし、留守居役の乃美織江は軽挙妄動は慎むようにとの意見でした。吉田稔麿や宮部鼎蔵らを交えて会議をした結果、この日の小戦はとりやめることになりました。(「乃美織江覚え書」)。

◆会津藩、出動を決議。諸藩出動準備を始める。

会津藩の重役は、事態を見逃せば守護職の職務をまっとうできず、かといって、浪士を捕縛すれば一層恨みが深まると、評議をしたそうです。しかし、ほかに名案もなく、この機をのがせば浪士に京を制圧される恐れがあるので、藩兵の出動をきめました。病床にあった会津侯松平容保に伺いをたてたところ、出動と決断したため、一橋慶喜、京都所司代(松平定敬:容保の弟)、町奉行などと打ち合せをし、新選組へは夜五ツ(21時頃)に祇園会所に集合すると約束しました。ところが、種々の手配が遅れ、諸藩の兵が出動したのは夜四ツ(22時半頃)近くとなりました。

◆新選組、諸藩の出動を待たずに捜索開始。

しかし、「新撰組にては待悶え一手にて召捕方相始め」ていました(『会津藩庁記録』)。新選組が諸藩と足並みを揃えずフライングで捜索を始めたのが何時頃からかははっきりしませんが、七ツ〜六ツ半(17時から20時半頃)には御用改めを目撃されたという記録(下表)があり、定められた集合時間より早く行動を起こしていた可能性もあります。

◆池田屋捜索始まる。

諸藩の兵が出動した四ツ頃、近藤勇ら10名は三条池田屋に御用改めに入り、善後策を協議に集まっていた長州藩士や浪士たちと闘いになりました。池田屋事件(騒動)の勃発です・・・。

*池田屋事件における山南藤堂・永倉・沖田
池田屋事件よくある誤解

夜七ツ頃 17時頃 会津・彦根・松山・浜松・桑名、壬生浪士、町与力・同心、御用改めを開始(時勢叢談)←会津ら諸藩がこの時間から兵を動かしたというのは明らかに誤りだと思われる。
夜六ツ半 20時半頃 壬生浪士、祇園町茶屋越坊を御用改め(『孝明天皇紀』)
夜五ツ 21時頃 祇園会所に会津藩の集合時間。池田屋で浪士の集合時間。桂小五郎、池田屋へ赴くが同志がまだ集まらず、辞して対馬藩邸へ行くという。
夜四ツ 22時半頃 会津藩兵、黒谷の本陣を出発(『会津藩庁記録』)。近藤ら10名、池田屋を御用改め(「近藤書簡」)。
夜四ツ半 23時半頃 会津・桑名兵、祇園井筒を御用改め。(『孝明天皇紀』)
夜九ツ 0時頃 会津藩兵、池田屋の新選組に合流。(『改訂肥後藩国事史料』)


<ヒロ>
■京都放火説の真偽
「よくある誤解」でも触れましたが、長州藩の「陰謀」はこのころにはかなり流布しており、新選組が古高の取調べで初めて得た情報ではありません。

また、歴史学者原口清氏の研究によれば、洛中放火計画を事実として伝えているのは幕府側史料だけで、古高と連絡のあったはずの桂小五郎もその書簡で放火計画を「虚説」と否定しており、同氏は陰謀説に疑問を呈しています京都歴史資料館の小林丈広氏は「幕府側にすれば陰謀説の流布によって、志士弾圧(池田屋事件など)を正当化することができると同時に、京都市中に根強い尊攘熱に水をさす効果をも期待できたのである」としています。もちろん「テロリスト」側が証拠になるような記録を残すわけがないという見方もできますが、同時に「治安組織」である新選組が放火説を捏造・誘導しなかったとは言い切れないと思います。(近い例では、アメリカの情報部がイラクへの武力行使を正当化するために大量破壊兵器の脅威をでっちあげていますよネ。また、自白の強要による冤罪事件は現在でもありますし)。

ところで、当時在京中の土佐人の書信に「浪士申合の事」とされるものがあるそうで、池田屋集合浪士の一人、北添佶摩の案ではないかと推測されています(下表:『維新土佐勤王史』)。これによれば、浪士が焼き討ちを考えていたのは京都市中ではなく、壬生の新選組屯所であり、中川宮・会津候の殺害まで考えていなかったことになります。古高のが自白したものも、新選組の屯所の焼き討ちだったとすると、新選組は会津藩に対して危機を誇張して報告したことになります。

前策 壬生方を囲み、焼打を以て之を塵にてし、京都騒動中、伝奏議奏へ願ひ、長州を京都へ居れ候よう仕る事。
後策 右の事成り候時は、伝議の両衆を討取、正論の御方は改革し、朝廷に相願ひ、一同割腹の事。
余策 京都の状況が一変すれば、中川宮を幽閉し、一橋を下坂させ、会津の官職を削り、長州を京都の守護に任じ、攘夷一決の議をば、宸翰を以て将軍に命じ、天下に流布いたさせる事。

なお、元治元年には長州藩が洛中に放火して公武合体派を殺害という風説が広く流布していたわけですが、前年の文久3年6月には幕府が御所に放火して激派公卿を逮捕するという風説が流れていました(こちら)

いずれにせよ、こういう京都放火計画否定説や、新選組屯所焼討説ももっと紹介されてもいいと思うんですが・・・されませんね^^;。

★新選組は諸藩の出動準備が整うのを待たずに出動していますが、結果として、少人数で池田屋に踏み込むこととなり、数的劣勢から浪士を捕縛できずに殺害・・・ということになった気がします。会津藩は浪士を捕縛すると怨みが深まると懸念していましたが、事態はそれを超えてしまったわけです。
(2000.7.8/2001.7.8/2002.7.7)
関連:■テーマ別元治1「池田屋事件〜禁門の変
<参考>『会津藩庁記録』・『甲子雑録』・『徳川慶喜公伝』・『京都守護職始末』・『維新土佐勤王史』・『新選組日誌』上・『明治維新と京都』

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