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元治1年6月6日(1864年7月9日)
【京】池田屋事件翌日:幕府による浪士探索・捕縛
【坂】西郷隆盛、国許の大久保利通に浪士における薩摩の評判回復などを報せる

☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』)
【京】元治元年6月6日、祇園宵山。前夜の池田屋での捕り物は未明には終息しましたが、それからも幕府(会津・彦根・桑名・淀、新選組、奉行所など)による浪士探索・捕縛は続きました

◆長州藩邸の動揺

長州藩邸では前年の禁門の政変(8.18の政変)以来、留守居役乃美織江を始めとする30人程度しか藩士が詰めていませんでした。急をきいた藩邸では騒然となりましたが、留守居役の乃美織江は必死で抑え、藩邸の門を閉ざし、攻め込まれたときに備えて防御を整えると同時に、暴発しないよう申し合わせました(『乃美織江覚え書』・『孝明天皇紀』−『新選組日誌』引用部分より)

ちなみに池田屋と長州藩邸は歩いて5分程度の位置にあります。

◆会津藩・新選組の探索

黒谷を出発した会津藩は新選組との分担どおり二条から三条に向って捜索しましたが、一人も浪士がみつからず、九ツ頃(6日0時頃)、三条小橋(池田屋)の新選組に合流しました。それから会津藩と新選組は先斗町などを捜索して「狩立」て、捕縛・斬捨てなどあわせて15、6〜20人ほどになったそうです(『会津藩庁記録』)。

諸資料をつきあわせると、池田屋で殺害された志士は4〜5名となります(表2)。6月4日夜から5日未明にかけて、池田屋で新選組に殺害された者、池田屋から脱出したものの会桑等の藩兵に殺害された者の合計は7名で、「殉難七士」と呼ばれています(表3)。

表2:諸資料にみる池田屋事件死者・捕縛者の数
『改訂肥後藩国事史料』 池田屋:5人討ち取り、2人捕縛(最終的に9人捕縛)
会津:2人討ち取り、3人捕縛
桑名:2人討ち取り、2人捕縛
『甲子雑録』 池田屋:4人斬捨て、2人捕縛。余は逃走。
『孝明天皇紀』 池田屋:5人即死、1人重傷者捕縛

表3:池田屋事件死者(1)−「殉難七士」
宮部
鼎蔵
肥後 傷を負い、池田屋階段下で自刃。享年45歳
北添
佶摩
土佐 池田屋で最初に斬られたともいい、現場で闘死したとされる(『維新土佐勤王史』)が、6日未明に北添佶摩宅を新選組が急襲したという記録もある(『甲子雑録』)のでこのときに殺害された可能性も否定できない。単なる家捜しだったのかもしれないが・・・。享年30歳。
大高
又次郎
播州 池田屋で闘死。享年44歳。
石川
潤次郎
土佐 池田屋で闘死(『維新土佐勤王史』)。その他、三条小橋で会桑の兵に殺害されたという説もあるそうだ。享年29歳。
吉田
稔麿
長州 一度池田屋を脱出して長州藩邸に急を知らせ、槍をもって引返そうとしたが、加賀藩邸前で戦闘となり死亡(『浦靱負(うら・ゆきえ)日記』)とも、池田屋を脱出し、会桑藩兵の重囲を抜けたが、長州藩邸近隣の加賀藩邸前で戦死(『防長回天史』)。長州藩邸の門が閉鎖されており、重傷の吉田は入ることができなかったとも(「壬生浪士始末記」・『維新土佐勤王史』)。享年24歳。
*槍をもって引返し、池田屋で沖田に斬殺されたという説もある(『新選組始末記』:沖田は、戦闘が始まってまもなく昏倒して運びだされているし、長州藩留守居役乃美は吉田の遺体を加賀藩邸前で発見したとしているので、これは間違いだろう・・・)
杉山
松助
長州 池田屋にはおらず、桂小五郎を訪ねて出かけ、難にあう。片手を斬られて長州藩邸に戻って急変を告げ、門を閉鎖させる。翌朝、藩邸で死亡(『防長回天史』)。池田屋事件の報をきいて桂小五郎を案じて飛び出したところ、加賀藩邸前で会桑の藩兵に片手を斬られて戻り、門を閉鎖させたとも(『乃美織江覚え書』)。享年27歳。
松田
重助
肥後 捕縛されたものの脱出したが、見張りの会津藩士に斬られて死亡ともいう(「壬生浪士始末記」)。享年35歳

◆諸藩の引き上げ

夜が明けて六ツ半(7時頃)ごろにもなると、河原町二条から三条にかけての惨状をききつけて見物人が集まりだし、彼らによる目撃談が残されています。五ツ〜四ツ(8時〜10時頃)になって諸藩、及び新選組は引き上げていったそうです。また捕縛された浪士らは駕籠にのせられ壬生まで連行されました。(『甲子雑録』など)

この日、会津藩は新選組に医師を派遣し、負傷者の治療にあたらせました。さらに、夕方になって、新選組が終夜働いて疲れているようであり、また(長州藩や浪士による)復讐などもあるかもしれないので、柴司ら藩士の子弟7名を加勢に派遣しました。(『会津藩庁記録』)

表2:池田屋事件死者・重傷者−新選組
奥沢栄助 初太刀で重傷を負い即死(「壬生浪士始末記」)。*屯所引き上げ後死亡の可能性もあり。
安藤早太郎 重傷。7月25日死亡。(「壬生浪士始末記」)*死亡原因が傷かどうかは不明
新田革左衛門 重傷。7月25日死亡。(「壬生浪士始末記」)*死亡原因が傷かどうかは不明
藤堂平助 額に深い傷を受ける。

◆新選組の不評も

新選組の「活躍」として知られる事件ですが、当時、「桑名候一番御出来宜しく、壬生浪士甚だ不出来」という評もきかれました(『甲子雑録』)。

関連:■テーマ別元治1「池田屋事件〜禁門の変
参考:『会津藩庁記録』・『七年史』・『京都守護職始末』・『甲子雑録』・『徳川慶喜公伝』・『幕末維新京都町人日記』・『新選組日誌』上・『維新土佐勤王史』・『新選組史料集コンパクト版』(2000.7.9/2001.7.9/2002.7.8)

【坂】元治元年6月6日、下坂していた西郷隆盛は、国許の大久保利通に書を送り、外国船の長州襲来への諸藩援兵の風聞、変事発生の憂慮、薩摩藩の評判回復を知らせました

要約するとこんな感じです。
長州への外国船襲来につき、長州に援兵を出す国は十二、三藩はあるというが、一国を挙げて応援するところは定めて少ないのではないか。「有志とか申す人数脱藩」して向かうのではと考えている。芸州(=広島藩)が600騎を派遣するとを知った因州(=因幡藩)は、在京の者が皆引き払って援兵のために帰国する方向とみえる。筑州(=筑後藩)も小倉あたりに援兵を出すつもりと伺われる。
長州の在京約200人は伏見に引き下っているものの、再度上京する方向だと聞く。国許で大敗となっても動じぬことに決定したようである。ここは「一物あるもの」とみえ、もし自分の国が大敗すれば、その恨みをどこかに報いるつもりではないか。長州は、どのような事があっても幕命は奉ぜぬ決心と聞くので、勝敗に関わらず、「変動の事」が到来するのではと考えている。
最近、御国(=薩摩藩)については、「暴客辺よりも宜敷説を申し立」てる様子であり、一橋公(=禁裏守衛総督一橋慶喜)の憎まれ方が一通りではない。「御察し下さるべく候」。
出所:6月6日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡 (『西郷隆盛全集』一)より作成
<ヒロ>
大坂にいる西郷隆盛には池田屋事件の報はまだ届いていないようですが、「変動」を予感しています。

書簡にあるように、実際、5月27日には因幡藩士主催の親長州諸藩有志の会が開かれ、長州援兵を話し合い、本藩に働きかけることを決めていました(こちら)。このへんは確かな情報ルートがあるようです。

で、不思議なことに、浪士たちの間で、薩摩藩の評判がよくなってるようです。つい数日前、6月2日の大久保宛西郷書簡(こちら)で、前年の8.18政変を主導した同藩の高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので国許に留め置くよう要請したばかりなのに、いったい何があったんでしょう?というより、何か働きかけたんでしょうか?それが「察してくれ」の意味するところ??

参考:『西郷隆盛全集』一p304-306(2018/1/7)
関連: ■薩摩藩日誌元治1■テーマ別文久3:攘夷親征/大和行幸と禁門の政変

【天狗・諸生】田中源蔵の一隊、足利藩に金3万両を要求。断られると略奪・放火。(『維新史料綱要』五)

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