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☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』) 【京】元治元年6月6日、祇園宵山。前夜の池田屋での捕り物は未明には終息しましたが、それからも幕府(会津・彦根・桑名・淀、新選組、奉行所など)による浪士探索・捕縛は続きました。 ◆長州藩邸の動揺長州藩邸では前年の禁門の政変(8.18の政変)以来、留守居役乃美織江を始めとする30人程度しか藩士が詰めていませんでした。急をきいた藩邸では騒然となりましたが、留守居役の乃美織江は必死で抑え、藩邸の門を閉ざし、攻め込まれたときに備えて防御を整えると同時に、暴発しないよう申し合わせました(『乃美織江覚え書』・『孝明天皇紀』−『新選組日誌』引用部分より)ちなみに池田屋と長州藩邸は歩いて5分程度の位置にあります。 ◆会津藩・新選組の探索黒谷を出発した会津藩は新選組との分担どおり二条から三条に向って捜索しましたが、一人も浪士がみつからず、九ツ頃(6日0時頃)、三条小橋(池田屋)の新選組に合流しました。それから会津藩と新選組は先斗町などを捜索して「狩立」て、捕縛・斬捨てなどあわせて15、6〜20人ほどになったそうです(『会津藩庁記録』)。諸資料をつきあわせると、池田屋で殺害された志士は4〜5名となります(表2)。6月4日夜から5日未明にかけて、池田屋で新選組に殺害された者、池田屋から脱出したものの会桑等の藩兵に殺害された者の合計は7名で、「殉難七士」と呼ばれています(表3)。 表2:諸資料にみる池田屋事件死者・捕縛者の数
表3:池田屋事件死者(1)−「殉難七士」
◆諸藩の引き上げ夜が明けて六ツ半(7時頃)ごろにもなると、河原町二条から三条にかけての惨状をききつけて見物人が集まりだし、彼らによる目撃談が残されています。五ツ〜四ツ(8時〜10時頃)になって諸藩、及び新選組は引き上げていったそうです。また捕縛された浪士らは駕籠にのせられ壬生まで連行されました。(『甲子雑録』など)この日、会津藩は新選組に医師を派遣し、負傷者の治療にあたらせました。さらに、夕方になって、新選組が終夜働いて疲れているようであり、また(長州藩や浪士による)復讐などもあるかもしれないので、柴司ら藩士の子弟7名を加勢に派遣しました。(『会津藩庁記録』) 表2:池田屋事件死者・重傷者−新選組
◆新選組の不評も新選組の「活躍」として知られる事件ですが、当時、「桑名候一番御出来宜しく、壬生浪士甚だ不出来」という評もきかれました(『甲子雑録』)。関連:■テーマ別元治1「池田屋事件〜禁門の変」 参考:『会津藩庁記録』・『七年史』・『京都守護職始末』・『甲子雑録』・『徳川慶喜公伝』・『幕末維新京都町人日記』・『新選組日誌』上・『維新土佐勤王史』・『新選組史料集コンパクト版』(2000.7.9/2001.7.9/2002.7.8) 【坂】元治元年6月6日、下坂していた西郷隆盛は、国許の大久保利通に書を送り、外国船の長州襲来への諸藩援兵の風聞、変事発生の憂慮、薩摩藩の評判回復を知らせました。 要約するとこんな感じです。
<ヒロ> 大坂にいる西郷隆盛には池田屋事件の報はまだ届いていないようですが、「変動」を予感しています。 書簡にあるように、実際、5月27日には因幡藩士主催の親長州諸藩有志の会が開かれ、長州援兵を話し合い、本藩に働きかけることを決めていました(こちら)。このへんは確かな情報ルートがあるようです。 で、不思議なことに、浪士たちの間で、薩摩藩の評判がよくなってるようです。つい数日前、6月2日の大久保宛西郷書簡(こちら)で、前年の8.18政変を主導した同藩の高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので国許に留め置くよう要請したばかりなのに、いったい何があったんでしょう?というより、何か働きかけたんでしょうか?それが「察してくれ」の意味するところ?? 参考:『西郷隆盛全集』一p304-306(2018/1/7) 関連: ■薩摩藩日誌元治1■テーマ別文久3:攘夷親征/大和行幸と禁門の政変 【天狗・諸生】田中源蔵の一隊、足利藩に金3万両を要求。断られると略奪・放火。(『維新史料綱要』五) |
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