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☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』) ■京都の情勢(by小松帯刀) 【京】元治元年6月22日、薩摩藩家老小松帯刀は、国許の大久保一蔵(利通)に対し、京都の情勢、会津からの度々の面談要請に応じられていないこと等を報じました。 京の情勢に係る部分を要約/意訳すると・・・。
<ヒロ> 会津が話したいことって、東上してきた長州勢対策への協力・連携なんじゃないかと思います。毎度支障があるというのもどこまで本当でしょうか。少なくとも積極的に会津と連携しようという姿勢はないようです。平岡円四郎暗殺に関する情報は、前21日の一蔵宛西郷書簡(こちら)と読み比べると、より具体的です。池田屋事件で一躍有名になったとされる新選組についても、いまだに「壬生浪人」としてか認知されておらず、しかも腰が引けてるとの風評もたっていたようです。 参考:東京大学維新史料綱要データベース(2018/1/20) 関連:■テーマ別元治1池田屋事件と禁門の変 ■長州東上 【坂】元治元年6月22日、長州藩家老福原越後が兵を率いて着坂。藩士来島又兵衛も遊撃隊を率いて着坂し、藩邸に入りました。(『維新史料綱要』五) 福原越後はそもそも出府の命を受けて東上中なだったですが、藩邸に用事があるので大坂に滞在すると届け出たそうです。しかし、福原及び遊撃隊は翌23日、大坂を出立し、伏見に向かいます(『維新史』四) 関連:■テーマ別元治1「長州藩の東上(進発vs慎重論)」 ■横浜鎖港問題 【江】元治元年6月22日、幕府は、横浜鎖港を推進し、鎖港を名目に挙兵した天狗党征討に反対する政事総裁職の松平直克を罷免しました。 <背景> 横浜鎖港問題・天狗党処分をめぐる水戸藩主徳川慶篤&幕閣との軋轢 松平直克は、孝明天皇の意向に沿い、横浜鎖港実現に尽力していました(鎖港問題を一任するとの幕府の布告は5/28)。常野の騒動についても、その根本は横浜鎖港であり、根本が定まれば自然に騒動も収まるだろうと考えており、これから鎖港という重要な交渉をするときに国内で兵を動かすのは拙策だとして、鎮圧には反対の立場でした。そこで、まず将軍の決断で「因循」(鎖港反対)の有司(を取り除くべきだと、6月3日には、将軍徳川家茂に閲して、老中酒井忠績(雅楽頭)、板倉勝静(周防守)、井上清直(河内守)、若年寄・大目付ら数名を更迭するよう進言し、それまでは登城を拒否すると言上していました。しかし、この進言は、朝廷から横浜鎖港問題を委任されていた水戸藩主徳川慶篤には相談なく行われたため、これを聞いた慶篤は、自分の権限を侵すものだと、直克を厳しく問い詰めたそうです。直克は、進言は一個人の意見であり、閣下を協議で煩わせる必要がありましょうか、と抗弁し、そのまま出仕しなくなってしまいました。 6月17日〜18日、家茂は、直克の進言を容れて、酒井・板倉老中らを更迭すると、直克を召し出し、常野の鎮定について意見を聞きました。直克は、水戸中納言(慶篤)に説諭させるべきで幕兵の派遣には反対だと述べました。筑波勢を追討するよりは、むしろ彼らを利用して、幕府が攘夷(横浜鎖港)の旗色を明らかにする方がよいと考えたからだそうです(筑波勢に同情的な備前藩主池田茂政も彼らを攘夷の先鋒とすることを建言しています)。 しかし、このことで、(更迭されずに残っていた)井上老中らと意見が合わず、結局、この日になって、今度は、直克が政事総裁職を更迭されることになりました。 鎖港論を主張し、筑波勢に同情的な直克が罷免されたことで、幕閣には次々と鎖港に消極的で筑波勢追討を主張するが登用されていくことになります・・・。 (参考:『徳川慶喜公伝』3p89-90)(2018/1/28) |