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元治元年6月21日(1864年7月24日)
【京】西郷隆盛、国許の大久保利通に、一橋慶喜の威権低下の見通し等を報じる。
【坂】長州東上:真木和泉・久坂玄瑞の率いる先発諸隊、着坂。

◆6/19【京】横浜鎖港:朝廷、横浜鎖港に関する世評及び因幡・備前両藩の建白を議す

☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』)

■京都の情勢(by西郷隆盛
【京】元治元年6月21日、西郷隆盛は、国許の大久保利通に対し、一橋家の「内乱」による慶喜の「暴威」低下の見通し、会津藩と土佐藩の反目等の池田屋事件後の京都の情勢を報じ、薩摩藩の悪評を封じるための商人による外国交易取り締まりを依頼しました。

主要部分は次のような感じ。
(島津珍彦着坂・着京の次第)
京都の形勢は日々変乱に傾き、致し方もない世態となっている。一橋家でも「内乱到来」があったようだ。(家臣の)平岡(円四郎)及び原市之進(注1)が殺害されたというが、家中のことであり、なぜこのような事になったのか詳しい始末は不明である。独木(=一橋家)は皆烏合の集であるので(注2)、「内乱到来」により、定めて(慶喜が)「暴威を振」うのも難しくなるのではないか。天下の人心は離反し、とても意気込み通り「暴権」を握るえなくなるのではないか。会津も独木(一橋慶喜)の助けとなり、「一向暴を助」けている。土佐藩士を間違って鎗で付くく事件が起こって、土佐藩士は頻りに憤り、二、三日後に会津藩士を五、六人切り捨てたらしい(注3)。このため、大混乱となり、今では会津藩士も「あぐみ果て」ていると聞く。
長州探索に向かっていた中村半次郎は、藩境において潜入できず、引き返してきた。
今の形勢では、とても「暴論」の通りの「鎖国」は不可能で、「自然開国の勢い」になると考えている。その際は、茶・生蝋は大いに(藩の)利益となるので、商人に任せて置いてはならず、今のところは厳しく取り締まっていただきたい。公然と(開国に)なった際には、藩として売り出すとのお考えで、今は厳しく取り締まりを願いたい。外国交易については色々悪評が立っている。交易の件のみ悪評が立っているので、暫くの間、取り締まっていただきたい。
(出所:6月21日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡より作成)

注1:6月16日の平岡円四郎暗殺(こちら)。原市之進の暗殺は誤報。
注2:一橋家には固有の家臣がおらず、幕臣や水戸藩士(慶喜の実家)から成っている。
注3: 6月10日〜12日にかけての明保野亭事件(こちら)。事件後、土佐藩士が会津藩士を五、六人斬ったというのは誤報。

<ヒロ>
尊攘急進派の動きとは対照的に幕府方の動きに関する情報収集は、適当なネタ元がいないようで、誤りが多く、慶喜に対しては相変わらずいい印象をもっていないようです。お家一筋で、薩摩藩の悪評のみが気がかりなようです。

参考:『西郷隆盛全集』一p326-331(2018/1/20)
関連:テーマ別元治1■池田屋事件と禁門の変 
※元治1年5月以降の一蔵宛吉之助書簡
・5/12:公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等
・6/1:幕府・慶喜が外国の手を借りて長州を抑えようとしているという風説、それは憎むべきことであるという考え
・6/2:(8.18 政変の件で)藩士高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので暫く国許に引き留めるよう願い出
・6月6日:浪士間における薩摩の評判回復
・6/8:池田屋事件の黒幕が慶喜である説、幕府、(親)長州の双方から味方として期待されているが薩摩は中立の方針
・6/14:池田屋事件・明保野亭事件に係る風説、長州における討幕説、中川宮の辞職周旋、中村半次郎の浪士潜伏


■長州東上
【坂】元治元年6月21日、真木和泉・久坂玄瑞の率いる先発諸隊(忠勇・集義等)が着坂し、大坂の藩邸に入りました。

<参考>『徳川慶喜公伝』3 (2001.7.24)
関連:■テーマ別元治1「長州藩の東上(進発vs慎重論)
【京】同日、会津藩、見廻組、新選組、彦根藩、大垣藩京都の警戒につく/海陸備向掛手付雇佐久間修理、中川宮に謁し、時務を陳ず。
【天狗・諸生】同日、田中源蔵の一隊、土浦藩真鍋宿で略奪・放火を行う。(『維新史料綱要』五)

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