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☆京都のお天気:双天 (『幕末維新京都町人日記』) ■長州入京問題 >長州勢の動き 【伏見】元治元年6月24日、前23日に武装して大坂を発った長州藩家老福原越後の率いる藩兵、藩士木島又兵衛の率いる遊撃隊500名余が相次いで伏見に到着しました。福原は、伏見奉行に対し、出府の途中だが伏見藩邸と合議する必要があるので一両日ほど滞在すると届け出ました。 【山崎】同日、真木和泉・久坂玄瑞ら諸隊も淀を出立して山崎に屯集し、老中稲葉正邦(淀藩主)に使いをやって、朝廷・幕府への「哀訴状」(@攘夷の国策樹立、A長州藩主父子及び三条実美等の雪冤罪と入京許可)を提出しました。山崎を守衛していた郡山藩へは、藩主父子や三条実美らの赦免祈願のために男山八幡寓を参詣すると届け、そのままそこを本陣にし。諸隊は天王山、観音寺等にの要所を占拠しました。 参考:『維新史』四p42-44、『徳川慶喜公伝』3p5(62018/1/23) >朝廷・幕府の動き 【京】元治元年6月24日、長州勢の嘆願書受けて朝議が行われました。中川宮(当時尹宮)、守護職松平容保(会津藩主)、所司代松平容敬(桑名藩主)は即時の長州討伐を訴えました。しかし禁裏守衛総督の一橋慶喜は先ず説諭をすべきと主張し、関白以下の賛同を得て、衆議が一致しました。 淀からの使いから嘆願書を受け取った老中稲葉正邦は一橋慶喜の宿舎を訪ねて事態を報告しました。慶喜は速やかに尹宮・伝奏・議奏に報じ、朝議が開かれました。その内容はだいたい次のようなものだったようです。
<ヒロ> 一会桑の意見が分かれています。(というか、元々慶喜と容保ってそりがあわないですよね) 慶喜といえば、在京長州シンパや(おそらくそのあたりからネタを仕入れている)西郷隆盛には、外国船の長州襲来や池田屋事件の黒幕だとみなされたりで(6/1書簡、6/8書簡)散々な評判なのですが、実際は、討伐慎重派だったんですね。そして、人心の折り合わないまま幕府が朝命を奉じて一旦勝利を得ても内乱状態になる恐れがあるという、慶喜の情勢を見通す目は、実家水戸藩の状況もそういわせたのだとも思いますが、ちょっと格が違うなと思う次第。 一方、即時討伐派は、8,18政変の当事者(+容保の弟)ですが、同じ当事者だった(というより仕掛け人だった)薩摩藩の傍観者的姿勢も知らず、味方としてみなしていることもわかります。会津藩が小松帯刀に頻りに会いたいと言ってきていた(6/22書簡)のはやはりこの絡みなんでしょうか。(ちなみに「常野」は天狗党のことを指しているのですが、容保たちに敵視されているのが悲しい。慶喜は彼らと近しいので辛い立場です)。 参考:『防長回天史』p五九伍(2018/1/27) そして、対長州強硬派に頼りにされている在京薩摩藩は・・・↓ >在京薩摩藩の動き 【京】元治元年6月24日、幕府は、薩摩藩京都留守居役に対して淀警衛のための出兵を要請しまたが、薩摩藩は、藩兵が御所守衛の任にあることを理由に、書面をもって断りました。 <ヒロ> ま、これはこれで理由が立つのですが、翌25日に西郷隆盛が大久保利通に送った書簡には、裏の事情が書かれています。(6/25) 参考:『西郷隆盛全集』一p332-333(2018/1/23) *** この日、壬生在住の町人、高木在中は、日記に「夜、山崎宝寺へ、長州家老福岡、六百人にて来る由風聞、その他ヒラカタ、伏見、長州勢多分来る」と記しており、緊張の高まりがうかがえます。(『幕末維新京都町人日記』p216)(2018/1/23) 関連:■テーマ別元治1「池田屋事件〜禁門の変」 ■横浜鎖港問題 >江戸の政変 【京】元治元年6月24日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、関白二条斉敬に、江戸の政変について報告しました。 鎖港推進派の政事総裁職松平直克の更迭は6月22日(こちら)なのですが、もう知らせが届いたのでしょうか?(でも、直克の進言による幕閣の開国派更迭(17〜18日)の報告にしては遅すぎますものね)。 参考:『徳川慶喜公伝』3p98(2018/2/3) 関連:■テーマ別元治1横浜鎖港問題(2) |