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元治元年7月15日(1864年8月16日)

【京】朝議、勅使派遣による説諭を決定
【京】薩摩藩吉井幸輔、土佐藩乾市郎平、久留米藩大塚敬介、朝廷要路を訪ね、従来の朝命の維持を要請。
【京】薩摩藩西郷隆盛、(ようやく)在京諸藩の会合に出席し、対長州強硬論を主張

(禁門の変まで後4日・・・)
☆京都のお天気:晴天 (『幕末維新京都町人日記』)
■長州入京問題
>朝廷の動き

【京】元治元年7月15日、長州処分の朝議が定まらない中、孝明天皇は「早々の撤兵」の叡慮を「断然」と示し、勅使を長州藩家老福原越後に遣わして、撤兵をすれば藩主父子の入京を認める旨を説諭させることになりました

山崎・嵯峨等に屯集の長州勢が朝命による退去にも応じないため、朝議では、討伐論が優勢だったところ、有栖川宮父子や関白二条斉敬らが平和裏に解決することを望んだそうです。長州藩主父子の入京を許すべきだという論も出たようですが、孝明天皇は、藩主父子の入京を裁可するのは撤兵後で「何分一先早々引き払うべし」との意見でした。さらに、山階宮が還俗後まだ活躍の場がないので、彼を勅使として勸修寺家(長州藩の執奏家)に遣わし、長州藩家老福原越後を呼んで説得させることを提案したそうです。

<ヒロ>
孝明天皇も、とにかくさっさと撤兵させたいのが先で、どこまで本気で長州勢撤兵後に藩主父子の入京を認めるつもりだったかは謎です・・・。

なお、朝議には有栖川宮父子、中川宮、山科宮、関白二条斉敬、右大臣徳大寺公純 内大臣近衛忠房、禁裏守衛総督一橋慶喜等が参加したそうですが、このメンツで討伐論が優勢だったとすれば、薩摩に入説された中川宮・近衛忠房あたりが「例の御持病恐怖」(7月9日付西郷書簡)を克服して頑張ったんでしょうか??

参考:『維新史』四p76、『中山忠能日記』二p193-195(2018/2/5)

>在京薩摩藩・有力諸藩の動き
【京】元治元年7月15日、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介の三名が正親町実徳(おおぎまち・さねあつ)邸を訪ね、従来の朝命を維持し、長州の嘆願を許可せぬよう、家臣に言い残しました。

同日、議奏正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)邸にも薩摩・土佐・久留米藩士が現れ、長州の処置は「追討之外無」いことを家臣に言い残しました。

実徳も実愛も参内中で家臣が応対したそうで、正親町邸では、家臣に次のような口上が残されました。

〇この度長州藩が多人数で兵器を携え伏見・山崎・天龍寺(嵯峨)等へ屯集し、夜には篝火をたくなど、容易ならぬ儀につき、朝廷からは、早々に退去の上、福原越後が残って御沙汰を待つよう仰せ出された。しかし、その儀を御請け申さぬのは実に容易ならぬ次第である。
〇兵器を携え多人数で上京してきたことで、「其威」を恐れて(嘆願を)許されては「朝威」が衰えることになる。かつ、私共が御守衛申し上げても詮が無いので、是非とも、前の御沙汰通りお達しになるよう願い奉る。これは三藩申し合わせての嘆願なので然るべくお取り計らいいただきたい。

実徳が、翌16日に中山忠能に知らせたところによると、彼らは、この日、議奏・伝奏の両役の他、関白二条斉敬、禁裏守衛総督一橋慶喜を回ったようです。

参考:『中山忠能日記』二p193-195、『嵯峨実愛日記』一p6(2018/2/5, 2/9)

<ヒロ>
この三藩は、御所外構九門の警備担当藩です(一門一藩)。久留米藩の警備担当(今出川門)ですが、8.18政変前は(親長州の)備前藩が担当していました(こちら)。長州の嘆願が聞き届けられて体制が変わると御所守衛から締め出される可能性もあるので、より危機感を感じていたのかもですね。

上記朝議との時系列がわからないので、勅使派遣の動きを聞きつけた周旋なのかどうかは不明です(その方が話的には面白いですが、実徳や実愛が参内中の訪問だったというので関係ないかもしれないです。だとしてもタイムリー)。彼らが慶喜のところまで回ったのは、やはり対長州で「不断」(7月9日付西郷書簡)とみなされているから・・・だと思います。

それにしても薩摩が他藩と協力してというのが新鮮です!在京薩摩藩は、本音は長州「駆尽」なのに、これまでは、朝廷守護専念を口実に、諸藩とも距離を置いていました。幕府から諸藩協力の朝命を伝達されても、それは慶喜が出させたもので至当ではないからと頑なに我が道をいっていたほどでしした(7月9日付西郷書簡)。何がきっかけで方針を転換をしたのでしょうか?実は・・↓

【京】元治元年7月15日(14日?)、薩摩藩は、土佐藩・久留米藩・越前藩等の会合に参加し、「長州征討」の方針を話し合いました。

当時尹宮(中川宮)の側にいた薩摩藩士前田十郎の回想によると、7月中旬頃、薩摩藩は長州征討すべしと決していたそうです。この会合に肥後藩は欠席でしたが、前日に薩摩藩に使者が来て、長州征討には異論なく、藩主細川慶順がその趣旨の建議を行ったことを伝えたとのことです。

ちなみに、『七年史』によれば、15日に行われた諸藩会合に、西郷吉之助(=隆盛)が現れ、<関白殿下に召されて参ったところ、諸藩に協力して長州を説諭せよと命ぜられた。長藩の是非曲直は置き、越後等が数多の平を率いて上京し(願意を)強請していることはは断じて許されない。諸君の意見がもし異なれば、弊藩独りで対応することも辞さない>と強硬論を述べたところ、諸藩も異を唱えなかったとされています。

<ヒロ>
これらの藩は、皆御所警備についています。さらに、薩摩・土佐・越前はそれぞれの前藩主(と国父)が元治1年の春に朝議参与に任ぜられた仲なので、在京藩士同士も行き来があったのではと思います。

薩摩藩が諸藩と協力するようになったのが、『七年史』のいうように二条関白の下命だったとしたら、二条関白が自分の考えで西郷を呼び出したとも思えない(失礼?)ので、在京薩摩藩をもてあました慶喜あたりから要請があったのかも?(もっといえば呼び出されたのは家老の小松帯刀だったかも?)西郷/在京薩摩藩としても、老中や慶喜ならともかく、関白から直接に下命されたのではさすがに断りがたかった・・・というより、待ちに待った大義名分だったような気がします。

同月12日に薩摩藩兵が400-500人ほど着京(『維新綱要』)していたので、それに意を強くして長州「駆尽」(かりつくし)に向けて積極的に動き始めたともいえそうです。

参考:『忠義公史料』三p398、『七年史』二p259(2018/2/8,2/9)

(上の吉井の三藩合同の動きと三本木の会合参加との時系列もはっきりしないのですが、諸藩が方針を確認した後に、吉井が動きだしたと考える方が自然かな、と思います)
関連:「テーマ別元治1」 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変

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