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元治元年7月16日(1864年8月17日)

【京】一橋慶喜、17日期限の長州撤兵勧告のため、伏見に大小監察度派遣
【京】薩摩藩、諸藩会合主宰。長州征討で一致((会津抜き)
【京】薩摩・土佐・久留米藩士、中川宮を訪ね、「速かな勇断」を求める

(禁門の変まで後3日・・・)
☆京都のお天気:晴暑 (『中山忠能日記』)

■長州入京問題
>在京幕府(一橋慶喜)の動き
【京】元治元年7月16日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、大小監察(永井尚志・戸川鉾三郎)を伏見に送り、長州家老福原越後に17日を期限とする撤兵を勧告させました。(会津藩・桑名藩士も彼らに同行しました)。

伏見に到着した永井らは福原を呼び出すと、<過日来、縷々朝廷幕府の説諭があったが承服の様子がない。この上は明17日を限りに退去すべきである。退去しなければ相当の処置の朝命もあるやもしれない>言い渡したそうです。福原は諸隊と相談の上回答すると述べて帰りましたが、永井に同行していた会津・桑名藩士が、<回答を待っている場合ではない。期限を過ぎれば直ちに処分との内決があると、(期限順守を)厳命すべきき>と主張したので、福原を呼び戻し、その旨を伝えたそうです。(『七年史』)。福原越後は、夜八ツ(=17日午前2時頃)の撤兵を回答して去りました(『京都守護職始末』※)

(※『京都守護職始末』では、福原は病と称して16日に出頭せず申し渡しは翌17日になり、17日という撤兵期限を切らせたのは同行の会津・桑名藩士であるとしています)

<ヒロ>
長州藩三家老が続々と率兵上京して京都周辺に展開し、会津・桑名だけでなく、薩摩・土佐・久留米・越前・肥後等の有力諸藩が長州征討を主張し始める中、慶喜は、あくまで説得・撤兵にこだわっています。

慶喜が監察(目付)を派遣するのは、6月29日(撤兵の朝旨伝達こちら)、7月3日(慶喜に与えられた撤兵の勅諚伝達7/3)、同月11日についで四度目です。この間の、13日には、慶喜自身が長州藩京都留守居役乃美織江を呼出し(こちら)、親長州諸藩とともに説得をさせていますが、いずれも不調に終わっていました。この日、永井が言った「相当の処置の朝命」とは、追討の朝命のことでしょうか。あるいは、翌17日、慶喜が中川宮らに語ったところによると、15日の朝議で決まった勅使派遣の件(こちら)を伝えさせたとのことなので、この件を指しているのかもしれません(勅使を派遣されるという不名誉な事態になる前に、自ら撤兵せよ?)。

>慶喜に対する会津藩(即時征討派)の憤懣
この日、永井に同行した会津藩・桑名藩(守護職・所司代)は当初からの即時征討派であり、期限順守を厳命させたのも、長州がどうせ守らないとわかっていてのことで、むしろ、撤兵説得派の慶喜に対する開戦の口実を求めてのことだと思います。

この頃の会津藩の慶喜へのいらだちは、翌17日に藩主松平容保が実兄の徳川慶勝(前尾張藩主)に送った次の手紙(部分抜粋)によく表れています。

(『京都守護職始末』2収録の7月17日付書簡書き下し文。()内は管理人)
一橋殿にも、最初は大いに憤発にて、(6月)二十七日に直に追討致候も然るべくとの儀を御所にても御発言これあり候。しかれども、その日はその場も遁れ候えば、いずれも人事を尽し候には如かずと申す議にて、当二日に大監察永井主水正、小監察戸川鉾三郎を伏見につかわし、退去の儀を厚く論解致し候。御所の沙汰をもって申し聞かせ候ところ、それ以来、(長州は)かれこれ申し立て、退去仕らず、もはや追討の外はこれあるまじくと一橋殿も決心致され候ところ、またまたその説を変じ、この上にも人事を尽したき旨にて、諸藩のうち見込み次第説得致し候よう申しつけられ候。しかしながら朝命、幕命をもって、大小監察の論解に承服仕らず候間、諸藩の家来共にて論解相届き候はこれあるまじく、且つ不体裁の至極に御座候。よって、(諸藩は長州説得を)多分は御請仕らず候ところ、その中にも御請け申し上げ候藩もこれあり、(長州は)当十一日までには、服、不服の段(=(=撤兵するかどうか)申し出で、そこにて決着致し候わずのところ、その間仔細これあり、おくれて御請申し上げ候など申すわけにて、一橋殿はまたまた(前16日に長州に撤兵を)御勧めに相成り候。その辺の義は、なにぶん筆紙に述べがたく候つまり、一橋殿御勧めにより起り、そのまた起りは、水、因、備三藩等の入説より出で候由に御座候。(=つまり、この決着のつかぬ状況は、慶喜の「人事を尽くしたい」がための度重なる撤兵勧告が引き起こしており、それも元はといえば(慶喜の親戚筋で親長州の)因幡・備前・水戸藩の入説によるものである

<ヒロ>
西郷隆盛が、大久保利通への手紙の中で、慶喜を「不断」と伝えたのも(7/9)、こういう噂を聞きつけていたからかもしれないですね。

参考:『防長回天史』p六二三、『七年史』二p258、『朝彦親王日記』一p4、『京都守護職始末』2p74-76((2018/2/9、2/10)

>即時征討派諸藩の動き
【京】元治元年7月16日、薩摩藩が中心となり、土佐藩・久留米藩・越前藩・柳川藩士と協議を行った結果、(長州征討に)「異論」がありませんでした。会合へは、薩摩藩からは、小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔、海江田武次、奈良原喜左衛門、藤井良節、高崎五六(猪太郎)ら、上掲諸藩からは数十人が出席したそうです。

<ヒロ>
前15日に引き続いての諸藩会議となります。会議を主宰するとは、薩摩藩、これまでの傍観的態度と一変して、気合が入っています。高崎五六(猪太郎)については、8.18政変の薩摩側中心人物であり、以前、西郷が、親長州勢力に憎まれているから上京を見合わせるよう申し送っていましたが、状況が変わったので上京してきたということでしょうか?五六が戻ってきているのに会津藩との連携を模索していないのは、会津藩と同一視されては薩摩藩の勢力拡大によろしくないとの判断なのでしょうか・・・。

【京】同日、薩摩・土佐・久留米藩士各1〜2名が連れ立って中川宮を訪ね、長州入京について「速ニ御勇断」するようを求めました。これに対し、中川宮は、明日殿下(二条関白)や両役(議奏・伝奏)と協議した上で返答すると答えました。(相前後して、西郷隆盛も中川宮を訪ねていますが用件は不明)。

参考:『忠義公史料』三398、『朝彦親王日記』一p2(2018/2/9)
同日、京都神泉苑町の町屋に、一橋家用人黒川嘉兵衛・同梅沢孫太郎・同原市之進を弾劾する張り紙。(『綱要』五)

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