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元治1年4月9日(1864年5月14日)

【京】長使入京問題:慶喜、長州藩主父子に書を送り、朝命に従い使者を東上させるよう勧告
【京】朝廷、令して、非常時の参内の仕方、及び御所九門・六門の警備担当を定める
【天狗党】田丸稲之右衛門・藤田小四郎ら、檄文を飛ばし、同志を募る。また、老中に上書。

☆京都のお天気:陰冷(久光の日記より)

■長州処分:長州使者入京問題
【京】元治元年4月9日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜は、長州藩主毛利敬親父子に返書を送り、朝命に従って使者を東上させるよう勧告しました。

参考:『維新史料綱要』五

<ヒロ>
3月5日、朝廷は、長州藩末家ら3名の大坂召喚を長州藩に通達しました(こちら)が、長州藩は、これに従わず、3同月28日、末家家老の入京を朝幕に請うとともに、三条実美らの復職・藩主父子いずれかの上京を朝廷に願い出ていました。これに対する返書だと思われます。

○長使(末家・家老)入京問題おさらい
長州・七卿処分については、2月8日に、幕閣・参豫諸侯・朝廷の主だった者との協議を経て、(長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、三条実美らの京都還送、違背すれば征討を決定、の3点が決まり(こちら)、11日には、征長部署の決定・関連諸藩への内達がありました(こちら)。さらに、2月24日の朝議(朝廷参豫会議)での結論(こちら)を受けて、25日には朝廷から長州藩末家・家老の大坂召命が出されていました(こちら)

ところが、2月28日に筑前福岡藩世子黒田慶賛から、朝廷の沙汰による召喚なら長使を入京させるべきとの建議がありました(こちら)。大坂までときけば、長州藩が憤激し、悔悟が覚束なくなるだろうという理由でした。(←長州藩の入説があったそうです)。この建議を受けて朝義が動揺したため、大坂召命の沙汰を撤回して長使を入京させるかどうかという手続き問題が、大きな政治的議題になりました。

朝廷は、長使入京の可否について、参豫諸侯に内々に下問しますが、24日の会議に参加していた春嶽・宗城・久光(+容保)は、長使入京には反対でした。大人数を率いての入京になれば朝議が動揺し、禁門の政変以前の形勢に戻る恐れがあるとみていたからです。しかし、久光らの入京不可の内答を聞いても朝廷は決断できず、29日、大坂召喚の沙汰を一時見合わせた上で、改めて朝議を開いて「衆議」をきくことを決めました(こちら)。久光・宗城は、朝廷の優柔不断さに失望し、それぞれ、29日の日記に嘆きの言葉を記しています。3月2日には参豫が召集されて朝議が開かれましたが、久光は病を理由に欠席しました。朝議では、宗城が久光と申し合わせた入京不可論を述べましたが、慶喜が、召喚場所を決める前に「寛猛」の処置を決めるべきだと主張して意見が分かれました。孝明天皇の裁断は大坂召命でしたが、その後も議論は「粉々」とし、決定にいたりませんでした(こちら)。翌3月4日の朝議でも入京可否の結論は出ず、長州が入京しても禁門の政変以前のような状態にならないよう、幕府が「保証」しなければ入京は不可であり、幕府の返答次第で可否を決めようということになりました(こちら)。5日、幕府は入京不可を決定したので、朝議も、長州藩末家ら3名の大坂召喚を再決定し、長州藩に通達しましたこちら)。

しかし、長州藩は、大坂召命に従わず、3月18日、敬親は、藩士に対し、父子どちらかによる率兵・大挙上京を告げるとともに、吉川監物に召命を断らせました。さらに、3月28日、末家家老の入京を朝幕に請うとともに、三条実美らの復職・藩主父子いずれかの上京を朝廷に願い出ました。

(2010/10/9)

関連:■テーマ別元治1「長州・七卿処分問題(元治1)」

■御所警備
【京】元治元年4月9日、朝廷は、令して、非常時の参内について、宮家・摂家・堂上等は建春門から、諸藩主は宜秋門からと定め、同時に御所九門内外警備の部署も定めました。


同月11日には、更に令して、非常時の参内は、宮家ら諸藩主ともに唐門からと定められました。(宮家・摂家・堂上等も諸藩主も守護職・所司代の警衛する唐門を入っての参内となります


<ヒロ>
文久3年5月27日の朝命(朔平門外の変後)と比べて、六門警備は、西側三門を相変わらず守護職・所司代でがっちり掌握しています。残りは、宗城の宇和島藩を除いては、すべて御三家・親藩・譜代で固めています。一つの門の担当が一藩から複数藩になっているのはなぜでしょう・・・。けん制?

また、文久3年5月27日の朝命(朔平門外の変後)と比べて九門警備での変更は、二箇所ですが、因幡・備前の両藩が警備を免じられ、それぞれ久留米・筑前藩に変っています。両藩は慶喜の異母兄弟が藩主を務めていますが、長州寛典を唱えており、中川宮などは、禁裏守衛総督の慶喜に影響を及ぼすのではないかと危惧していました。やっぱり、そういう懸念あっての交替なんでしょうか?(想像ですが、両藩の警衛する門から長州藩士や浪士が出入りするのではないか、変事が起ったとき長州藩を御所に入れるのではないか等の恐れがあったのかも)。

(注)なお、宮門警備の担当藩は、この間にも多少入れ替わっています(『維新史料綱要』から把握できる入れ替わりは表1、表2の注釈に示しています)。元治元年3月28日時点で、中根雪江が、九門担当の諸大名には暴論を唱える者が特にいないと語っているので(下記参照)、この時点で、既に因幡・備前は担当からはずれていたのではないかと思います・・・。何かわかれば追加修正します。

○慶喜の交替寄合受け持ち案
九門警備については、3月28日、中川宮が越前藩士中根雪江に語ったところによると、禁裏守衛総督たる慶喜が、諸藩の警備を解いて交替寄合に受け持たせたいと上言していたそうです。この件につき、中根は、「人心の居合」がよくないと反対しました。さらに、九門担当の諸大名には「疎暴の論を主張する輩」が特にいないので、現状維持とするが、九門内は諸大名の警備を解いて守護職・所司代に担当させてはどうかと提案していました(こちら)。この日の朝命をみると、中根の進言どおり、慶喜の案は却下されています。勉強不足で、直前の担当諸藩を全て把握できていないので、中根の提案が採用されたかどうかはわかりません。

表1:御所内講六門警備担当藩
門の名称 位置 文久3年5月27日の朝命 元治1年4月9日の朝命
朔平門 北側 中津 宇和島(*1)・膳所
唐門
(宣秋門、公卿門)
西 会津(守護職)
長岡(所司代)
守護職(会津(*2))
所司代(桑名(*3))
清所門(台所門) 西 会津(守護職)
長岡(所司代)
守護職(会津)
所司代(桑名)
准后門前 西 会津(守護職)
長岡(所司代)
守護職(会津)
所司代(桑*)
建礼院門(南門) 広島 水戸・紀伊・伊予松山
建春門 米沢 尾張・郡山(*4)
(黄色は六門中重要な西側三門。桃色は文久3年5月と変更のあった箇所)

*1 朔平門:宇和島藩は元治元年1月12日に、柳川藩に替って警備を命じられているので、引き続きの警衛となる。
*2 唐門:会津藩は、元治元年3月12日に、軍事総裁職就任に伴い、唐門等の警備を新守護職の越前藩と交替するよう命じられている。今回は守護職再任に伴う復帰となる
*3 唐門:桑名藩は元治元年4月11日に所司代に任命される。9日はまだ淀藩が所司代。
*4 建春門:郡山藩は、元治元年3月12日に、新守護職越前藩に替って建春門警備を命じられているので、引き続きの警衛となる。

表2:御所外講九門警備担当藩
門の名称 位置 文久3年5月14日の朝命(出火の非常警戒)
文久3年5月21日の朝命(警備)
文久3年5月の朝命
元治1年4月9日
の朝命
今出川門 北側 備前 備前 - 久留米
乾門 西 薩摩 薩摩 出雲(29日) 薩摩(*5)
中立売門 西 因幡 因幡 - 筑前
蛤門 西 水戸 水戸 会津(守護職)(*6) 会津(守護職)(*6)
下立売門 西 仙台 仙台 - 仙台
堺町門 長州 長州 - 越前(*7)
寺町門 肥後 肥後 - 肥後
清和院門 土佐 土佐 - 土佐
石薬師門 阿波 阿波 - 阿波
(黄色は九門中、重要な西側四門。桃色は文久3年5月と変更のあった箇所)

*5 乾門:薩摩藩は、文久3年5月20日に発生した朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件こちら)がきっかけで、同月29日に警衛を解かれたが(5/29)、8月18日(禁門の政変)時に、九門警備に復帰した。そのときから引き続きの警衛となる。
*6 蛤門:会津藩は朔平門外の変をきっかけに、九門前面警備を求めたが、21日の朝命に会津藩は含まれなかった。しかし、要求を重ねた結果、27日以前(時期不明)に蛤門警備を命じられた。元治元年3月12日に、軍事総裁職就任に伴い、一度、蛤門の警備を新守護職の越前藩と交替するよう命じられている。今回は守護職再任に伴う復帰となる。
*7 堺町門:文久3年8月18日(禁門の政変こちら)時に長州藩に変って、所司代(淀藩)が警備を命じられる。元治元年3月12月、出雲藩が警備を免じられ、守護職から軍事総裁職に転じた会津藩が警備を命じられた。しかし、会津藩は守護職再任で蛤門警備を命じられ、越前藩が堺町門警備にまわった。

参考:『維新史料綱要』四、五(2010/10/9, 12, 13)
関連:■「御所九門・六門警備(文久3)」「同(元治1)」■豆知識「御所の九門・六門

【天狗党】日光山において、田丸稲右衛門・藤田小四郎ら、檄文を発し、尊攘の大義によって朝幕のために奮起したことを明らかにし、同志を募る。また、老中板倉勝静に上書。(『水』下p575-579)




【京】家茂、中川宮及前関白近衛忠煕の邸に詣る。 『維』五)
【長州】筑前藩士江上栄之進ら、密かに藩命を受けて湯田に赴き、三条実美らと議す(『維』五)

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