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☆京都のお天気:晴炎熱熾 (『嵯峨実愛日記』) >長州勢追討 ■洛中の追討・放火 【京】元治1年7月20日、会津・彦根藩等による市中の長州勢探索が引き続き行われました。怪しいと思われる箇所は焼き払われ、京都の大火は続きました。 参考:『幕末維新京都町人日記』p217、『中山忠能日記』二p212(2018/4/8) ■洛外の追討・放火 【嵯峨】元治1年7月20日、薩摩、伊予松山、小浜、小田原、膳所藩が、残党狩りのため、嵯峨天龍寺に向かいました。長州勢は退去した後でしたが、薩摩藩によって火が放たれ、あたりに燃え広がりました。 山崎に屯集していた長州勢も退却していました。ただ、家老益田右衛門の具足・軍扇などが取り残されていたといいます。 参考:『i維新史』三p90、『中山忠能日記』二p211、『玉里島津家史料』三p460, 463(2018/4/8) ■一会桑による御所内の探索 【京】元治1年7月20日夕、御所に十津川郷士が潜伏し、鳳輦を奪おうとしているとの密報により、禁裏守衛総督一橋慶喜、守護職会津藩主松平容保、所司代桑名藩主松平定敬が、兵を率いて参内しました。深夜過ぎまでくまなく捜索した結果、空振りに終わりましたが、宮中は大混乱になりました。 明治44年の回想によれば、この事件は、慶喜が生涯で死を覚悟した三度のうちの一度だったそうです。 (てきとう訳) 三時ごろ、禁裏付から、今夜、十津川郷士が常御殿の内庭に潜んで鳳輦を奪う企てがあるとの密報があった。同時に、郷士らが既に禁中に入ったと知らせる者もあったので、大変驚き、会津・桑名に密かに常御殿の塀外に兵を配置させ、自分も伝奏を通して関白に内報した上で、やがて参内した。主上は常御殿におられたが、縁側には板輿が置かれ、麻裃をつけた数十人がその側に跪いていた。急いて奏して主上を紫宸殿にお移しし、会桑の兵を庭に繰り込ませたところ、郷士らも事ならずと察したか、板輿を擁して退散した。「誠に危機一髪」であった。後から聞いたところ、御所の裏門の錠がねじ切られており、そこから入ったと聞く。また、「宮中にも手引きさせるものありし」と思われた。「生涯に必死の覚悟を定めしことおよそ三度なりしが、この度は実にその一度なりき」。(他の二度は、条約勅許奏請と「官軍」江戸討ち入りのとき) <ヒロ> 十津川郷士は、当時、御所内講東側・建春門内の警備を命じられていました。 参考: 『中山忠能日記』一p213、『嵯峨実愛日記』一p11、『昔夢会日記』p12(2018/4/8) >松平春嶽 【京】元治1年7月20日、幕府(所司代)は、前越前藩主松平春嶽の上京を促しました。 (書付のてきとう訳) 伏見その他屯集の長州人、御所近辺へ押し寄せ、乱暴及び所々放火等致し、容易ならざる形勢に付き、早々に上京されたい。 <ヒロ> 春嶽、頼りにされていますね。(でも、いたるところで放火しているのは幕府側では・・・)。 参考:『続再夢紀事』三p186(2018/4/15) >六角獄における大量処刑 【京】元治1年7月20日、禁門の変で起こった大火が洛中を席捲し、六角獄に迫る中、収監されていた「志士」たち33名が刑死しました。彼らが大火に乗じて何か企てるのではないかと恐れた役人が、非常時には囚人を処置しても差し支えないという先例にならい、独断で刑に処したのだそうです。 主な刑死者(リンク先は彼らが残した詩歌) 〇足利木像梟首事件:長尾郁三郎(京都) 〇大和の乱:乾十郎(大和)、古東領左衛門(淡路) 水郡善之丞(河内)、辻郁之助(河内)、長野一郎(河内)、石川一(元因幡支藩)、吉田重蔵(筑前)、保母健(元島原藩)、田中楠之助(河内)、辻本伝兵衛(河内)、原田一作(備中) 〇生野の乱:平野次郎(国臣)(元筑前藩)、本多小太郎(素行)(元膳所藩)、横田友次郎(因幡)、大村辰之助(周防)、片山九一(木村愛之助:丹波) 〇池田屋事件:古高俊太郎 〇七卿の使として上京:丹羽正雄(三条家臣)、河村季興(三条西家臣) 〇長州に往来:佐竹織江(厳瑤坊)、藤山衛門(教観坊) 参考:『維新史』三p116-117(2018/4/8) >薩摩藩の報じた禁門の変 【京】元治1年7月20日、在京薩摩藩家老小松帯刀は国許大久保利通に禁門の変について報じる中で、朝廷では「暴論之堂上」を抑え、戦では陣頭指揮を執った禁裏守衛総督一橋慶喜の「余程之尽力」を称賛しました。 (7月20日付大久保一蔵宛小松帯刀書簡のてきとう訳)
<ヒロ> ちょっと前までとはうってかわって慶喜が評価されています。 関連:テーマ別下元治1■一橋慶喜の評判 参考:『玉里島津家史料』三p460-462(2018/4/8) 小松は、国許の重役には、「薩兵なくハ此節きり」だったと、薩摩藩の活躍を報じました。 (7月20日付在藩重役宛小松帯刀書簡のてきとう訳)
参考:『玉里島津家史料』三p458(2018/4/8) 【京】元治1年7月20日、在京の薩摩藩士西郷隆盛(吉之助)は国許の大久保利通(一蔵)に対し、前19日に起こった禁門の変について、「実に薩兵あらずんば危き次第」等、(主に薩摩藩の活躍を)報知しました。 (7月20日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡のてきとう訳)
<ヒロ> 自分もケガをしてますが、それには触れない吉之助でした。市中での火攻めや天龍寺への放火を誇らしげに報じていますが、それを原因とする火事で被災したひとたちのことはどう思っていたんでしょうか・・・。 参考:『玉里島津家史料』三p463-464(2018/4/8)
>勝海舟の会津・薩摩批判 【坂】海軍操練所の勝海舟(勝安房)は、日記の中で、会津・薩摩のやり方を「薩、会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり」と批判しました。 なお、薩摩藩については、「形勢を明察し、機会に乗ずる天下第一」であり、昨冬以来、長州藩と対立しているが、「私怨を忍び、敢て咎めず、彼が挙、不正に到るに及で、憤怨以これに答へんとす。尤巧なりといふべし」と、抜け目のなさに感嘆しているともとれるのに対し、会津藩については、「上に人物なく、下士激烈」であり、「必ず労して天下の大害を生ぜん。また可憐」と見もふたもありません。 会薩に対し、長州は、お国の大事と人心掌握に務め、8.18政変は会津・薩摩の陰謀だとその非を挙げ、攘夷を好む人々を味方につけていたので、「京地の風評、長を善とし、会殊に悪説あり」だったそうです。 <ヒロ> 京都方面に赤色(大火)をみた勝は、観光船(=観光丸)に出航を命じ、20日に大坂に着いていました。 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p165、『勝海舟』(松浦玲)262(2018/4/8) 山陵奉行:正親町三条実愛、戸田大和守を訪ねる。(嵯p11) 関連:テーマ別元治1 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 |