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元治1年8月22日(1864年9月22日)

【江戸】幕府、諸藩に対し、征長部署について、京都の達しより江戸の達しを優先せよと命じる。
【江戸】幕府、長州藩主毛利慶親・定広父子の官位停止・将軍の偏諱称号をはく奪

8月20、21日の主な動き(綱要)
・8/20【天狗・諸生】松平頼徳、水戸城入城折衝するが、拒まれ戦闘に。
・8/21【長州】四国艦隊:長州藩主毛利慶親、講和止戦を芸州藩経由で幕府に報告

☆京都のお天気:晴 (嵯峨実愛日記)

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■京都VS江戸
【江】元治1年8月22日、江戸の幕閣は、在府の諸藩留守居役を呼出し、征長部署につき、すべて江戸からの命令を優先せよと命じました。

〇諸藩の受け取った達書
「毛利大膳御征伐に付、口々討手の面々手配の儀、於京都相達候趣も有之候得共、攻口の割合・出陣此合之儀、都て於当地被仰出候通可被心得候」

<ヒロ>
江戸で征長部署を達したのは8月13日でした。なぜ10日近くもたってこんなことを言い出したのか・・・。(↓想像です)

一橋慶喜に江戸で決めた征長部署の詳細が知らされたのは19日でした(こちら)。それは京都で出した幕命と異なるもので、20日には、在京老中稲葉正邦が諸藩留守居役を呼び出して、江戸の幕命を優先させるよう達していました。おそらく、これと並行して、江戸にも急報したのではないでしょうか。19日に情報を受け取って、即、三日切で江戸に飛脚を飛ばしたとすると、22日という日付もありえると思います。

参考:「肥後藩国事史料」『稿本』(綱要DB 8月20日条)(2018/5/4)
関連:テーマ別元治1第一次幕長戦 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>禁門の変の賞罰
【江】元治1年8月22日、幕府は、長州藩主毛利慶親・定広父子の官位停止・将軍の偏諱称号をはく奪しました。
(日付は綱要)

〇会津藩が受け取った達書
「松平大膳大夫家来共、迫禁闕砲発條、不恐天朝、殊に父子軍令状家来へ遣條始末、重々不届之至に付、父子共に官位並御一時御称号被召放候旨、被仰出候。此段為心得向々へ可被達候」(『七年史』)

藩主慶親の「慶」は将軍徳川家慶から、世子定広の「定」は将軍徳川家定の「定」の一字をもらっていました。この後、両名は、それぞれ、敬親、広封と名乗ります。

参考:『綱要』、『七年史』ニp348(2018/5/4)

関連:テーマ別元治1池田屋事件、長州入京問題、禁門の変

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