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元治1年8月19日(1864年9月19日)
【京】一会桑(禁裏守衛総督一橋慶喜・京都守護職松平容保・所司代松平定敬)、
将軍徳川家茂の進発・外国艦隊の長州撤退説得を促すため、それぞれ使者を海路東下させる
【京】慶喜、会津藩に、江戸で決まった征長部署を通達
【長州】四国艦隊の旗艦、下関を出港

・8/18【江】幕府、宮津藩主本荘宗秀を老中とする(※安政の大獄時の寺社奉行で、所司代就任を松平容保が大反対したため赴任できなかった人物です)
☆京都のお天気:晴陰不定時々雨(『嵯峨実愛日記』)

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■将軍進発問題&長州処分、そして一会桑の協調
【京】元治1年8月19日、参内した一橋慶喜は、江戸の役人に困っていること、将軍上洛の様子が定まらないので、守護職・所司代等と相談してそのうち言上することを述べたそうです。(中川宮が聞いた話)

参考:『朝彦親王日記』一p36(2018/5/8)
↓その日のうちに・・・

【京】元治1年8月19日、禁裏守衛総督一橋慶喜、京都守護職松平容保、所司代松平定敬は、@将軍の「急速」進発、A幕府による外国艦隊の長州退去説得を促すため、それぞれ使者を大坂から海路東下させました。(21日大坂出港→24日着府)

慶喜は目付小出五郎左衛門を派遣し、小出に会津藩公用方柴太一郎、桑名藩士森弥一左衛門が同行しました。

〇8月19日付老中宛容保書簡の概容(てきとう要約)
将軍進発
・長州征伐を諸藩に命じられ、引き続き将軍進発も発表され、「一統勇躍奮興」している。「実ニ千歳一時不可再得之好機会」なので「何卒一刻も早ク御発徒」されたい。万一遅延すれば、「討手之諸藩ニ於も自然気勢相気勢ミ緩み顧慮傍観之念」を生じるかもしれない。兵は拙速を尊ぶともいい、くれぐれも「急速御進発」を願いたい。
外国艦隊退去説得
・本月5日から「夷人共」が長州へ砲戦に及んだというので、長州処分の議論も色々あるが、(幕府が)「夷人共」に止戦・速やかに撤退を説得すべきと「一橋殿始評議相決」した。「既ニ於朝庭(ママ)も尤と御聞済」になり、肥後・薩摩・土佐・久留米等の外様藩からも、(幕府が)放置せず、(外国を)説得して撤退させねば、「議論紛々」となるとの建言があった。
・(外国艦隊に対して)すぐさま撤退するように「一橋殿より御差図有之可然義」と存じるが、(外国艦隊の)横浜出帆時の(江戸表の)応接の次第が分からず、「前後不都合之応接」になっては相手が外国であり、取り返しがつかないため、少々の遅延があっても、江戸から速やかに撤退するよう使者を派遣してほしい。
・委細は、一橋殿より小出五郎左衛門を差し遣わされるが、自分も家臣(=柴太一郎)に申し含めたので、当地の事情を尋ねてほしい

<ヒロ>
最初、在京幕府は、四国艦隊が攻撃を開始する前に退去させる計画でしたが、それがかなわなかったので、次善の策として、下関に滞在する艦隊を退去させ、その後、将軍の進発によって征長を行うことを進言することにしました。

将軍進発による征長
慶喜・容保は、8月4日、将軍上洛・征長指揮を促すため、老中阿部正外、藩士野村左兵衛・広沢富次郎を海路大坂より東下させていました(こちら)。江戸では、将軍進発は表明されたものの、征長総督は紀州藩ついで尾張藩に命じるなど、将軍進発についてはなかなか決行されませんでした。
外国艦隊退去説得→征長
8月11日、征長の前に四国艦隊退去を説得すべしというの朝命が出ており(8/11)、翌12日、軍艦奉行勝海舟に対し、姫島に集結する四国艦隊説得せよとの慶喜の命が伝えられました(8/12)。決死の覚悟を決めた勝は、海路14日に姫島に到りましたが、既に四国艦隊は姫島を去って下関を攻撃した後であり、15日に姫島を空しく出帆しました。17日には、会津・桑名・薩摩・土佐・久留米・越前・肥後の諸藩士が会した結果、征長の前に、外国艦を長州領より退去させて「日本政府」が長州処分を行うよう、会津藩が諸藩を代表して慶喜に建議することが決まっていました(こちら)。その建議の結果が、一会桑それぞれが使者を送ることにつながったのだと思います。

禁門の変後の一会桑の密接な関係がうかがいしれるのですが、容保の手紙を受け取った江戸の老中は、「かちん」ときたでしょうねえ。特に長州処分の件。容保としては京都の世論を伝えようとしたと思うのですが、外様藩と結託した一会桑が朝廷の権威を背景に、江戸に圧力をかけ、意見を押し通そうとしているととられかねないような・・・。そして、本来なら慶喜が指図してしかるべきだが、江戸から十分情報がないのでできないっていうあたりも、正直なところをいってるんでしょうけど、江戸には僭越・皮肉って受け取られかねないような・・・。(やっぱり、容保/会津藩ってあまり政治的じゃないと思う・・・)

参考:『会津藩庁記録』五p544、『綱要』(2018/5/3)

【京】元治1年8月19日、一橋慶喜は、守護職会津藩に、(江戸で決まった)征長部署を達しました。(江戸で決まった征長部署は京都で内決していたものとは異なるものでした)。

<ヒロ>
京都で決めたことが江戸で取り消されるという状況を打開するには将軍が上洛して直接指揮をとるに限るの・・・この情報が届いたタイミングと、上の江戸への使者派遣との時系列はよくわかりませんが、この情報が先に届いていたのならば、将軍進発を改めて促すために使者を送るきっかけになったかもしれません。

慶喜がこの情報を直接を受け取ったのか、所司代あるいは老中経由だったかは不明です。肥後藩の記録によると、翌20日、在京老中稲葉正邦が諸藩の留守居役を呼び出し、征長部署につき、従前の京都における幕命を取り消し、江戸からの幕命に従うよう達したようです(「長州御征伐討手配の儀、於当地去る十三日以書付相達候処、右は取消しに致し、討手配の儀江戸表において相達候通可被心得候」肥後藩国事史料)。京都と江戸とで幕命の内容が違っていては諸藩が混乱するので、慶喜が正邦に指示したのではと想像します。

それから・・・情報を受け取った慶喜が即座に会津藩に報じたという前提ですが、江戸で諸藩に征長部署が達されたのは13日ですから、京都に届くまで約6日ってことですよね?最速は3日限なので、このへん、慶喜への報知はそんなに急がなくていいという江戸の気持ちがみえる気がしませんか?(うがちすぎ?)

参考:『会津藩庁記録』五p545-551、「肥後藩国事史料」『稿本』(綱要DB 8月20日条)(2018/5/3)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(1)

>四国艦隊下関襲来
【長州】元治1年8月19日、20日、四国艦隊が下関を出港し、横浜に向かいました。(20日、21日説あり)
(英・仏・蘭の計3隻は監視のため残留)。


関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

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