「今日」トップ 元治1年8月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆8/22へ  ◆8/25へ

元治1年8月23日(1864年9月23日)

【京】朝廷、守護護職松平容保に命じ、暫く御所凝華洞に宿衛を命じる
【名古屋】前尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜に書を復し、病のため征長総督の台命を辞したことを告げ、朝廷への執成しを依頼。
【神戸】坂本龍馬、京都の事情を勝海舟に伝える

☆京都のお天気:雨降催冷気 (嵯峨実愛日記)

>第一次征長戦へ
■将軍進発問題
【京】元治1年8月23日、将軍徳川家茂の使者本多忠民(美濃守・岡崎藩主)が、所司代松平定敬と共に参内し、禁門の変後の、天機を伺いました

本多は29日に出府、14日に着京していました。

参考:『朝彦親王日記』一p30-31、「岡崎藩主本多忠民願書」3「飛鳥井雅典日記」5『稿本』(綱要DB 8月23日条 (3、5)

同日、中川宮は、参内した本田美濃守と面談した際、将軍の早期上坂を周旋するよう申し入れました。また、禁門の変が早々に鎮静したのは、一橋慶喜・会津藩等の格別の働きがあったことを、篤と(江戸に)報告するよう言い聞かせたそうです

なお、将軍の早期上坂は、かねてから中川宮が朝議で主張していた意見だとのことです。

参考:『朝彦親王日記』一p30-31(2018/5/6)

■征長総督問題
【名】元治1年8月23日、前尾張藩主徳川慶勝は、禁裏守衛総督一橋慶喜に書を送り、病のため征長総督の台命を固辞したことを告げるとともに、朝廷への執成しを依頼しました

〇慶勝の書状のてきとう要約
征長総督の台命は「武門の面目」だが、自分は「将器乏」しい上、病の治療も進まないので、「軍期」(=9月中の出陣命令)の迫る中、やむを得ず、江戸に使者を派遣して、総督を免じるよう請願した。公武に対して恐れ入るが、このまま遅延し、期を誤ってはならぬのでこのような次第となった。朝廷へもよろしく御執成しいただきたい。

<ヒロ>
ちなみに、慶勝の母親は水戸7代藩主徳川治紀(慶喜の祖父)の娘なので、慶勝と慶喜は従兄弟になります。(なお、慶勝と容保・定敬は高須藩主松平義建の息子で兄弟ですが、母親が違うので、慶喜と容保たちは従兄弟ではありません。ややこしいですよね〜)。

参考:8月23日付一橋中納言様宛尾張前大納言書簡「国事文書寫」『稿本』(綱要DB 8月23日条)(2018/5/4)

>守護職松平容保の黒谷帰陣問題
【京】元治1年8月23日、朝廷は、守護護職松平容保に対し、黒谷本陣へ戻ることを延引し、今暫く御所凝華洞で宿衛するよう命じました

〇伝奏からの朝命
「近々黒谷旅館江引取候旨、過日伺候得共、何分方今形勢ニ付苦労思召候得共、今暫之処凝花洞是迄通詰居候様被遊度候事」(会津藩庁記録)

さらに、老中稲葉正邦からは、凝花洞の仮屋を増修するために、仁和寺建築用の木材を流用するよう達されました。

<ヒロ>
容保は、去る6月27日、御所に乗輿で駆けつけ、凝花洞(お花畑)に宿陣しました(こちら)。また禁門の変後、7月24日の夜から、禁裏守衛総督・京都守護職・所司代が交替で宿衛すること命じられたため、御所を離れることができませんでした。禁門の変の騒ぎも収まり、容保の病状が思わしくないので、会津藩は容保を黒谷の本陣に帰らせてほしいと懇願していましたが、8月17日、ようやく許可され、18日には、慶喜・定敬とともに御所宿衛も免じられたばかりでした。ところが、肥後藩・桑名藩・土佐藩等が容保の凝花洞引き払いに反対し、19日には、引き払いを延期するよう朝廷に働きかけました。その結果、会津藩も引き払うことをあきらめ、今度は、公用人小野権之丞が、引き払いの延期を願い出ることになったようです。22日には滞留の沙汰がでることが決まり、この日、達書が出されたようです。中川宮は、肥後・有馬(丸岡藩?)・加賀・土佐藩重役が申し立てた結果だと記しています。

なお、会津藩の凝花洞滞留については、肥後藩留守居役の上田久兵衛は、家族宛の書簡で「公武之御間ニ始終私説を御取上げ、面目を施誌シ」た記しています。この日の夕方、会津藩からは、上田伝次・諏訪丈吉が、お礼を兼ねて凝花洞滞留・仮屋木材確保の報告に訪れたそうです。会津藩は黒谷に戻りたかったのか、残りたかったのかどっちなんでしょう?(実は、ありがた迷惑ってことだったり??)

参考:『朝彦親王日記』一p30.31.34.38、41、「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB 8月23日条)、元治1年8月24日上田久兵衛書付・8月28日付上田久兵衛書簡(父・妻宛)『幕末京都の政局と朝廷』p9-10(2018/5/4)


■坂本龍馬が勝海舟に語った京都の状況
【神戸】元治1年8月23日、京都から神戸に戻った坂本龍馬は、勝海舟に、@薩摩藩には征長の策略がない、A京・大坂・西国では外国船下関襲来につき幕府陰謀説が盛んで征長に消極的、B会津藩が、探索と称して略奪を働く新選組を用いていることにより、京都市民に不評であること、などを語りました。

〇勝海舟が坂本龍馬から聞いた話のてきとう要約。
征長と薩摩藩「薩にも策略無し」。始め、薩摩藩は、「橋公」(=慶喜)を征長総督とし、大兵馬の権を附させようとしたが、「橋公も又、恐れながら(江戸の幕閣から)嫌疑あり。これを御主張する能わず」。
外国艦の長州襲来:小倉藩が傍観していたことから、京・大坂・西国においては、襲来の黒幕は幕府である、長州に罪があるとしても外国の手を借りて征伐しようとは国辱であり、その罪を糺すべきとの説が盛んである。この説により、征長の命を奉じない、または備・因・芸などでは、征長より、まず攘夷(=下関の外国船を攻撃して追い払う)すべき等の論が沸騰している。
征長総督:「尾老候(前藩主徳川慶勝)と其当主(藩主徳川義宜、まだ6歳)の御中間隔絶の事あり、今老候出て総督たるは、老候附属の士等勢大に及ばむ、必ず出だすべからずなど、瑣々たる愚説轟轟たり」
会津藩・新選組:「京地、会津に服せざる、甚し」。会津の用いる「壬ぶ浪士」(=新選組)は、「探索を名とし、財宝を私すること甚敷」く、「是がために災を蒙る」下民が「尤多」い。会津藩士まで「盗」と目されている。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』(2018/5/4)
関連:テーマ別元治1第一次幕長戦

おまけ(龍馬と西郷)
四国艦隊の下関襲来の黒幕が幕府だという説は、この頃の西郷吉之助(隆盛)の説です(こちら)。吉井幸輔とともに上京した際に薩摩藩邸にも寄っただろうし、そのときに西郷に会ったんじゃないかな・・・と思います。『氷川清話』(明治30年)には、勝が西郷の噂をよくするので龍馬が会いたいといったから、勝が紹介状を書いてやった、(薩摩から)戻ってきた龍馬が「なるほど西郷というやつはわからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったとありますが、このときのことでしょうか。(となると、薩摩と京都は間違いですが、残りの勝が西郷の噂ばかりばかりしてたとか、紹介状書いたとかも眉唾ですよね・・・。噂は吉井幸輔経由の方がしっくりくるし、吉井が同行してるなら紹介状いらないですしね)

関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

8月23日のその他の主な動き

◆8/22へ  ◆8/25へ

「今日」トップ 元治1年8月 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ