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12. 薩摩藩国父島津久光の改名-藩主への野心? 03/06/09
島津久光 わたしは幕末を読み解く鍵の一つは会薩関係の変化だと思ってます。で、その薩摩藩では大久保一蔵(利通)、吉井幸輔、小松帯刀、五代才助といった藩士に興味をもっているんですが(勉強中^^;)、一番気になるのが国父(藩主の父)島津久光です。「名君」といわれる島津斉彬に比べてどうも影が薄いのですが、久光が動かなければ薩摩藩は動かなかったんですもの。それに、なんていうか、いろんなエピソードが人間っぽくって好きなんですよね。そういうわけで、このサイトでは久光の動きを結構「おっかけ」していくつもりです^^。

ところで、久光の通称は最初「和泉」といいました(同時代記録などには「和泉」「島津和泉」とよく書かれています)が、文久2年(1862)5月、幕政改革を促す勅使大原重徳に随従しての東下が決まったとき(こちら)、これを改名しています。時の老中水野忠精が「和泉守」であり、紛らわしいから変えてはどうかとの近衛忠房の提案によるものだったそうです。

久光が選んだ新しい通称は「三郎」でした。で、この「三郎」は、薩摩藩嫡統の通称なんだそうです。自分こそが事実上の藩主だという意識、また息子に代って次藩主たらんとする意思が見え隠れする気がするのですが・・・考えすぎ?

実は、久光には東下に前後して、幕府に対して、支藩を通じて自身の家督相続の運動を行っていたんです。でも、6月、幕府に拒絶され、7月には総裁職の春嶽にも拒絶されてしまいます。また、無位無官であることを気にして、官位拝命のための朝廷工作も行っており、その結果、京都の中山忠能から勅使大原あてに「久光の従四位上中将推任叙の叡慮があるので周旋するよう」との書簡がもたらされました。しかし、大原の周旋にも関わらず、幕府は「無位無官の陪臣である久光への超越した叙任は、諸大名の官位を乱し、武家の制度を崩し、ひいては朝廷のためにもならない」と久光の叙任を承諾しなかったんです。

嫡流の名乗る「三郎」に改名までしてはりきってた?のに、ショックだったと思うなぁ・・・。

幕府は久光をずっと猜疑の目でみていくわけだけど、もっと信じて報いてあげていれば、久光も気をよくして、ちょっとは薩摩藩の動きも違っていたカモ・・・?(いや、保守的な会津あたりが猛反発して、不協和音生じて大変だったかもしれない・・・^^;)

追記:「再夢紀事」によれば、この改名は天皇の意思だという風聞があったようです。天皇は久光をひそかに児島三郎高徳(後醍醐天皇が隠岐に流されるときに奪回を企てた南朝側武将)に擬したのだというのですが・・・。(03/6/20)

関連:■「今日」>◆文久2年4月16日−島津久光非公式に入京・近衛忠房・中山忠能・正親町三条実愛らに幕政改革を進言 5月8日−伝奏、勅使派遣を所司代に伝える 5月11日−孝明天皇、九条関白に勅諭案(三事)を議論させる 5月11日−朝廷、勅諭案(三事策)を議定/5月12日−薩摩藩国父島津久光に勅使随従の勅旨
■「開国開城-文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件

参考:『維新史』『徳川慶喜公伝』



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