5月の幕末京都 幕末日誌文久2 テーマ別文久2 HP内検索 HPトップ
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■島津久光の率兵上京と寺田屋事件 【京】文久2年4月16日、薩摩藩国父島津久光が近衛忠房(近衛忠熙の子)の要請を受けて非公式に入京しました。久光は近衛忠房・中山忠能・正親町三条実愛らに幕政改革を進言しました。これを受けて久光に滞京・浪士鎮撫の勅命(内旨)が下りました。 久光は、自身の率兵東上の意図を<今度関東へ行くのは一昨年以来の修理大夫(薩摩藩主島津忠義)の参勤をニ度猶予してもらった礼、江戸藩邸焼失後(実は薩摩藩自身の放火)の処置について指揮すべきことがあるからだが、それは表向きのことである。実は亡兄斉彬の遺志をついで、公武合体によって皇威を振興し、幕政を改革することを建白するにある>と述べたそうです。そして、<願わくば、叡慮のあるところも知りたい>と、幕政改革案を提示しました。要点は以下のとおり。
●長州と薩摩藩の建白の違い 長井雅楽の航海遠略策は、基本的に、幕府の体制・政策をそのままにして朝廷の攘夷政策を開国に転じることによって、公武一和を実現させようというものでした。 これに対し、久光の策は、幕府・朝廷人事の一変し、幕府の体制そのものの変革を迫るもので、しかも、それを朝廷の権威と自らの武力という圧力によって実現させようという前代未聞のものでした。ただし、ここでは開国なのか鎖国(破約)なのかという国の基本は公論によって決するとだけあります。(朝廷に受け入れられやすくしたためでしょうか?)。 ●孝明天皇の反応 中山・正親町三条の両議奏がただちにこれを孝明天皇に執奏したところ、天皇は大変喜び、久光に滞京・浪士鎮撫の内旨を下しました。 ●無位無官の久光の入京と京都所司代の傍観 入京の正当性を得た、久光は一旦、伏見に戻り、翌日兵を率いて入京することになります。外様藩、しかも藩主でない無位無官の久光が天皇の命を受け、兵を率いて京都に入り、あまつさえ浪士鎮撫を任されるというのは旧来のありかたを大きく逸脱したものでした。しかし、朝廷を監視し、京都を守衛する役目の京都所司代酒井忠義は、朝廷・薩摩両者の動きを止められませんでした。(この所司代のふがいなさが、のちの京都守護職設置の一つの要因となります) *『徳川慶喜公伝』では16日に藩士1,000余名を率いて入京したことになっているが、『維新史』では16日に入京。いったん伏見に退いて改めて17日に入京とされている。ここでは最近の研究である『島津久光の明治維新』の16日非公式入京、勅命を受けて17日に正式入京をとりました。 ●近衛家と薩摩藩 近衛忠房は前左大臣近衛忠熙の息子。母親は島津斉興の養女です、正室は前薩摩藩主で久光の兄にあたる島津斉彬の養女・貞姫です。そういうわけで、薩摩藩との結びつきが深いのです。 関連:■テーマ別「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」 ■「薩摩藩日誌文久2年」 参考:『維新史』三・『徳川慶喜公伝』2・『島津久光と明治維新』(2003.5.11) |
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