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文久2年5月8日(1862年6月5日)
【京】朝廷、勅使派遣を決定。
大原重徳、別勅使に任命される。
【江】春嶽、国是の決定、開国創業の決意を将軍に勧告
【江】容保と春嶽の会見

■勅使東下
【京】文久2年5月8日、朝廷は勅使派遣を決定しました。また、同日、大原重徳(62歳)を左衛門督に任じて勅使に任命しました。

勅使派遣は在京中の薩摩藩国父島津久光の再三の懇請によるものだったそうです。老中久世広周(大和守)上京の朝命がでていたものの、久世は堀田正睦の二の轍を踏むことを恐れてなかなか応ぜず、このままでは公武一和の機を失すると考え、勅使の東下と自身の随従を建議したのだそうです。

また、当初は岩倉具視が別勅使として候補にあがりましたが、岩倉は固辞して大原を薦めたそうです。建仁寺の僧侶天章も、当時孝明天皇の寵愛篤かった久我建道内大臣に対して、<岩倉は廟堂の器で京都を離れるべきではないが、大原は剛直であるので勅使にすべきである>と説いたので、大原に決まったのだそうです。

<ヒロ>
大原重徳は、伊東甲子太郎兄弟をひいきにしてくれた公卿です。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2002.6.5)

■慶喜・春嶽登用
【江】文久2年5月8日、幕政参与を命じられた松平春嶽は登城して将軍家茂に謁し、国是の決定・開国創業の決意・公平無私の重要性、慶喜の幕政参与を説きました。

この日、家茂は、登城した春嶽をすぐそば(間合い4尺ほど)に招き、人払いの上、<公武の間柄について心配している。委細は老中から申し聞かせるだろうが、容易ならぬ時勢なので上京の上公武一和が成るようしたい>と相談したそうです。

これに対し、春嶽は、老中久世広周を同席させた上で、公武一和には、不動の国是決定、開国創業の決意、公平無私(=幕利中心的考えを捨てる)な政治が肝要であることを主張し、さらに、一橋慶喜の幕政参与を勧告しました(「一橋殿事も世上にては皆御敵の如く思し召し候様に申居候」だが、「何分人望有之之御方に候えば御打棄なく御身柄方御政務御相談にも被相加候はば天下慰望の一端にも可相成と奉存候」)。また、国是が定まらないうちは将軍の命令だといえども上京できないと明言しました。

将軍との会見後、老中久世は春嶽に<御前での議論は一々ごもっともで敬服しました。とりわけ一橋殿のことなどは中々余人をもって言い出せることではなく、誠にありがたき次第です>と言ったそうです。(ということは、久世は慶喜登用に積極的だった??)

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.1)

■会津藩と越前藩
【京】文久2年5月8日、幕政参与の松平春嶽と松平容保(会津藩主)が会見をしました。

<ヒロ>
5月3日に参与に任命された容保(こちら)の方から会見を申し込んだそうですが、特に議論もなく、今後心安く話しをしたいとの挨拶ですみました。春嶽と容保と会うのはこれが初めてのようです。「再夢紀事」では、容保を徳川慶勝の実弟で「善良の御方なり」と記しています。容保が幕政参与についたのは識見が期待されたわけではないことがここからも伺える気が・・・^^;。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.1)

関連:■テーマ別文久2「一橋慶喜・松平春嶽の登用と勅使大原重徳東下」「国是決定:開国VS破約攘夷」■「開国開城」>「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件「文2:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」

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